江戸時代は、徳川幕府を中心とする幕藩体制の時代でした。この枠組みの中で、幕府は、基本的に各藩主・旗本といった領主に課税・徴収権を認めたため、各領主は自分の領地に年貢や運上・冥加などの税を課していました。また、村や町では、領主によって課税される税の他に、徳川幕府によって負担を求められることがありました。
 運上・冥加とは、江戸時代の営業税・営業免許税にあたり、商工業者などに課税されていたものです。運上・冥加は、幕府は幕府の直轄領に、藩は藩の領地に課税するなど領主が自分の領地に合った税制をとって課していたため、領主や地域によってその種類や課税方法が異なっていました。
 明治時代に入っても運上・冥加は、明治政府の下でしばらくの間継承され、地方には様々な雑税が存在することとなりました。

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覚(冥加金請取に付)
寛政6年 (1794) 2月

 これは、伊勢崎藩(現群馬県)の鈴木孫左衛門他1名から出された冥加金50両の請取証です。ここでの「冥加金」は「上納金」のことを指すと思われます。

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乍恐以書付奉願上候 (運上山松木片付願) 安政6年(1859) 3月

  大垣藩領であった松山村(現岐阜県海津市)では、領主が管理する山(「御林山」)を「運上山」として、運上を上納する代わりに木の伐採権が認められていました。これは、「運上山」の字前曽和山の木をめぐる願書です。

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丑御年貢皆済目録(部分) 天保13年(1842)

  これは、羽州村山郡入間村(現山形県西村山郡西川町)で、年貢をすべて納めた時に発行された皆済目録です。入間村は、当時幕府領でしたが、天保12年の皆済目録から「酒造冥加永」の記載を見ることができ、村に酒造人がいたと思われます。

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御布告 午(明治3年・1870)正月

  村々の代表が詰めている郡中会所から、村々に廻された布告の写しをまとめたものです。史料は、正月12日に柏崎県(新潟県)租税方が諸職人の役永、諸運上冥加永の取調べを命じたものです。ここでの「永」は銭のことです。

酒造運上・冥加

 酒造には、酒造運上・冥加が課されていました。酒造は、大量の米を使用するため、徳川幕府によって酒造米が制限されるなどの規制がありました。明治時代前期には、酒は財政上重要な生産物となり、酒造運上・冥加は酒造税(国税)となりました。この酒造税は、国の主要な財源となっていきました。その一方で運上・冥加のうち酒造免許に課税されるものは営業税への道を歩みました。

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差上申御請書之事  (酒造高3分2減少に付)(部分)
天明7年(1787) 10月

  天明7年は天明の大飢饉のピークの年でした。この年に徳川幕府は、米価の高騰を理由に酒造に使う米を3分の1にするよう命じました。この史料は、茂田井村(現長野県佐久市)の酒造人が領主の役所に酒造の石高を3分の2減少させたことなどを届け出たものです。

横網町の改正地券の写真

酒造鑑札
明治4年(1871) 
10月15日

 明治4年(1871)7月に、旧鑑札を没収し新鑑札が交付され、酒造税は免許税となりました。これは、明治4年に佐渡県から沢根町の沢 三左衛門に宛てて新たに交付された酒造鑑札です。鑑札には「酒造屋壱軒 元米八石五斗」と書かれています。