3.壬申地券から改正地券へ
地租改正法の公布により地租改正事業がスタートしますが、全国的に本格化するのは明治8年(1875)の地租改正事務局の設置以降です。
明治8年(1875)には、1%であった市街地の税率が郡村と同様に3%となり、改正地券の様式も統一されました。そして壬申地券では認められていた1枚の地券に複数の土地を記載する方式を改め、土地1筆につき地券1枚を発行することになりました。こうして壬申地券は改正地券に書き換えられました。
また、明治17年(1884)に土地台帳の作成が指示され、翌年から地租改正事業の不備を正す地押調査が実施されました。明治19年(1886)の登記法により土地台帳の整備が促進され、明治22年(1889)に土地台帳規則が制定されました。こうして地券と地券台帳は廃止され、地租は土地台帳に記載された地価を基準に課税されるようになりました。
明治7年(1874)小倉県
明治6年(1873)山口県
統一以前の改正地券
改正地券の様式が統一される以前に地租改正に着手した府県では、独自の用紙が用いられています。山口県と小倉県の改正地券には、スカシも入っています。明治8年6月までに、宮城県・浜田県・磐井県が改祖を終了し、置賜県・堺県では一部が終了しました。
明治6年(1873)水沢県の地租改正着手の布達
水沢県(明治8年に磐井県と改称)も早期に改租に着手した県です。この布達には、地租改正法や地価取調心得などとともに、改租期限も示されています。
明治11年(1878)山梨県
明治10年(1877)福岡県
山梨県・福岡県の改正地券
山梨県と福岡県の改正地券は、地券用紙統一後の発行ですが、独自の用紙が使用されています。他に独自の用紙を用意していたのは山形県と石川県で、民費節減を理由に許可されました。
改正地券の発行時に作成された地引絵図。田・畑・屋敷・道路などが色分けされています。縮尺600分の1。
明治11年(1878)地券大牒
壬申地券は廃棄され、地券台帳に割印をして改正地券が発行されました。改正地券は、紙幣寮刷版局(後に大蔵省印刷局)で用紙が印刷され、府県に送付されました。明治22年(1889)の土地台帳規則の公布により改正地券は廃止され、地券台帳も土地台帳に替わりました。
大蔵省が印刷した改正地券
裁断された壬申地券
栃木県梁田町(現在の足利市)の地租改正の過程が、8つの場面に分けて具体的に描かれています。地租改正の申し渡しから、耕地や町の測量、地引絵図作成の様子などです。星宮神社は、絵馬を奉納した町村の地租改正事務所に使用されました。
大蔵省印刷局の改正地券用紙
改正地券の原版は、キヨッソーネが作成し、明治8年(1875)10月よりドイツ人の凸版印刷技術師の指導を受けて印刷されました。原料に木綿などの破布(ボロ)を使用した洋紙で、明治18年度までに1億5千万以上が印刷されました。
キヨッソーネの肖像(パネル)
Edoardo Chiossone(1833〜1898)
(お札と切手の博物館所蔵)
イタリアの銅版画家。日本の新紙幣製造を受注したドイツのナウマン社に勤務していた縁で、明治8年(1875)に来日しました。紙幣や地券、印紙・切手などの原版だけでなく、明治天皇や大久保利通などの肖像画も製作しています。
明治10年(1877) 王子製紙会社略図(パネル)
(紙の博物館所蔵)
改正地券用紙の印刷は、大蔵省紙幣寮刷版局(後の大蔵省印刷局)だけでは需要に応じきれず、明治9年(1876)から民間の洋紙製造会社にも委託されました。地券用紙の印刷は創立期の洋紙製造会社の経営に大きな追い風となりました。