明治5年(1872)、政府は田畑売買を解禁して作付けの自由を認めました。そして売買・譲渡による所有権の異動を明確にするため、郡村地券が発行されました。
 郡村地券の発行は村を単位に行われ、検地帳や名寄帳などをもとに、地券には所有者や地価などが記載されました。地価は、市街地と同様に村が申告した適宜の地価です。郡村地券に税率の記載がないのは、年貢地にたいする新たな課税が目的ではなかったためです。
 郡村地券は府県ごとに発行されましたが、基本帳簿がないことや地券発行が増税に繋がるなどの懸念により、発行できない府県もありました。

宝暦13年(1763)西北条郡西一宮村・湯谷村田畑本所新開反別畝並改帳

 郡村地券の交付に際しては、検地帳や名寄帳などで所有者や面積などの確認が行われました。この検地帳には、検地後の変化や地番も記載されており、地券発行のときと思われるチェックがあります。

明治6年(1873)頃 改正地券左登志(ちけんさとし)

 地券は、諸人の宝である地所の所有を県庁の印により明確にするものであり、増税を懸念する巷説に惑わされないように論したもの。明治5年10月の大分県告論を度会新聞(わたらいしんぶん)が附録としてルビ付きで刊行しました。

府県概念図(明治6年4月)

 現在の府県名や府県域がほぼ確定するのは、明治9年(1876)です。廃藩置県から間もない時期の府県名や府県域は、古代以来の国や郡が基準とされることが多く、現在とは大きく異なっています。
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