入間村は、山に囲まれた村で、徳川幕府の領地と出羽松山藩の領地に分かれていました。幕府領は幕府の代官、松山藩領は松山藩の支配を受けており、年貢もそれぞれの領主に納めていました。このため、入間村の中で幕府領と松山藩領は、独自に村を運営していかなければなりませんでした。
 江戸時代には、享保の大飢饉・天明の大飢饉・天保の大飢饉など大きな飢饉が起きました。入間村の幕府領では、飢饉や災害による被害があった時には、村を治めていた幕府の代官が年貢の税率を下げたり年貢を免除するなどを行いました。また、入間村では、村の人々が生活をするために、領地に関係なく行動することもありました。
 入間村では、こうした様々な関係のもと年貢を納めていたのです。

文化5年(1808)杉植附議掟之事(入間村本郷枝郷杉植付二付)1
文化5年(1808)杉植附議掟之事(入間村本郷枝郷杉植付二付)2

文化5年(1808)杉植附議掟之事(入間村本郷枝郷杉植付二付)

 文化5年入間村では、幕府領と左沢領が協力して、後の備えとするために山野の空き地の3か所に杉の苗1万本を植えました。そして、杉が育つまで幕府領と左沢領で下木を刈り手入れをすることなどが取り決められました。

天保6年(1835)村備杉木売払候節代金割賦議定

 これは、入間村で文化5年に植えた杉の内、「成木」になったものを売った時の代金の配分を決めたものです。この仲間には、入間村の幕府領と左沢領の他に、隣の兵助新田も加わっていました。

天保9年(1838)惣百姓神文を以議定之事

 兵助新田は、入間村の隣にあった小村です。兵助新田では、天保4年(1833)に大洪水が起き大きな被害が出ました。このため、当時兵助新田を支配していた代官池田仙九郎は、村の石高29石余りの内12石を年貢の対象から除きました。これは、兵助新田が、池田仙九郎と配下の者に感謝し、その武運長久を神に祈ることを決めたものです。