1.江戸時代の入間村
江戸時代の社会の基本は石高制でした。石高制とは、土地の価値を米の収穫高で測る方法のことです。
入間村では、江戸時代の初期、寛永18年(1641)に検地が行われましたが、この検地の時には土地の価値は銭などで計算されていました。入間村が石高制に完全に移行したのは、寛文12年(1672)の検地からのことです。
検地とは、領主が領地の村に対して行った土地調査のことで、これによって村では、一か所ごとの土地の石高(=米の収穫高)と村全体の石高(=村高)が設定されました。また、検地の結果は、検地帳に記録され、土地の種類・石高・耕作者が登録されました。
以後、石高は、家の資産や、村の中で共同で費用を負担する時に、その大小を決める基準となりました。石高は、村の中で人々が生活していく上での基本原則となっていたのです。また、江戸時代の税の中心は、土地に課税される本途物成でしたが、石高が課税の基準となっていました。
天保9年(1838)入間村本郷兵助新田麁絵図
代官の役所に提出した入間村の本郷と隣村の兵助新田を描いた絵図の写しです。当時入間村は、幕府領と左沢領(桃色の部分)に分かれていましたが、この絵図から領地が入り組んでいる様子が分かります。
なお、野山は、幕府領と左沢領の入会地(=共有地)となっていました。
寛永18年(1641)寒河江領入間村水帳
租税史料館で所蔵している入間家文書の中で最も古い史料です。この検地帳には、土地1か所ごとに貫高(=銭の金額)などが記されています。この検地は、幕府の代官小林十郎左衛門らによって行われました。
寛文12年(1672)羽州最上寒河江領之内村山郡入間新田御検地帳
出羽国の幕府領では、寛文検地が行われました。
入間村では、新たに村の中で新田が開発されました。これは、この新田の検地が行われた時に作られた検地帳で、土地の石盛が記されています。
寛文12年(1672)御検地二付被仰渡候覚書
これは、寛文12年の検地の際に村から検地役人に宛てて出した起請文の写しです。この起請文は、検地の際に村で不正を行わないことを神に誓ったものです。なおこの検地の時には、庄屋の清右衛門が検地役人に村の中を案内しています。