4.村と領主
江戸時代の領主は、「村を治める者」として入間村や「郡中」に対して救済を行うことがありました。入間村があった西川町は、現在も豪雪地帯ですが、江戸時代には飢饉が起きたり冷害が村を襲うことがありました。
このため、「郡中」では、代官の命のもと、「郡中備金」(=非常時のための対策金)を積み立て非常時に備えました。
また、代官は、領地の村々が年貢を納める時に「貯穀米」(=備蓄米)を村に下げ渡すこともありました。そして、村では、この「貯穀米」を村の郷蔵に保管しました。
入間村は、年貢をお金に換算して納めていましたが、このため、領主はその換算率を下げることで村の負担を軽くすることがありました(=「安石代」)。また、領主は、検見(=収穫高の調査)を行い、その結果をもとに村の実態に合った税率に変更することもありました(=「破免検見」)。
これは、入間村が納めた本途物成の石高で、入間村ではこの石高をお金に換算して本途物成を納めていました。入間村は、江戸時代を通じてたびたび飢饉に見舞われましたが、特に宝暦5年(1755)から7年(1757)の3年間は飢饉のため年貢を納められず、年貢の納入には宝暦8年(1758)までかかりました(ただしグラフについては、データがわからない年がある)。
慶応2年(1866)当寅田方立毛内見合附取調書上帳(上)
付木(下)
上は、入間村が「破免検見」を願い出た時に作られたもので、検見の際に行われた坪刈りの箇所になります。
下の木片は、先に硫黄が付いていて、火種から炉に火を移す際に使う付木として用いられました。この付木は、この「破免検見」の際に使われたもので、「書上帳」の字と同じ字が付木に書かれています。
元治元年(1864)備金拝借証文之事
入間村などの幕府領の村々は、江戸時代の終わりに松前藩の領地に変わりましたが、「郡中」の組織は残りました。これは、「郡中入用」に差し支えがあったので、「郡中備金」の内金30両の拝借を願い出たものです。「東根役所」とは、松前藩の陣屋のことです。