江戸時代の村は、他の村々や村の外の人々と様々な関係を結んで生活していました。
 入間村の幕府領では、他の幕府領の村々と「郡中」という組織を作っていました。「郡中」では、代官の御用を勤める際の費用や代官の陣屋の修復費などの費用を村々の間で共同で負担していました(=郡中入用)。この他、「郡中」で共通の問題が起き村々の間で意見が一致すると、「郡中」で代官に願い出ることもありました。入間家は、「郡中」の代表である「郡中惣代」を勤めていました。
 入間村では、この「郡中」の村々と諸費用を負担し、共同で江戸へ年貢金を送っていました。また、入間村では、他の村々と共に米を買って年貢などを納めることもありました。安政4年(1857)、入間村などの村々は、領主から年貢米を買って納めるよう命じられました。このため、村々の代表は、酒田港まで行って米を買い付けようとしましたが果たせず、今度は新庄まで行って米を手に入れようとしています。

「郡中」の村々

酒田袖之浦小屋之浜絵図

 酒田は、最上川と日本海を結ぶ最上川の河口にある港でした。酒田には、幕府の領地の御用米や庄内藩などの藩の御用米が集められていました。

文政11年(1828)御廻状扣帳

 これは、「郡中」で共同で負担する費用(=「郡中入用」)の明細を書き上げた部分で、「郡中」を運営している柴橋会所から入間村、兵助新田に宛てて出されたものです。

安政4年(1858)酒田湊買替米入用割賦

 これは、入間村で酒田港で米を買い入れる際に作った帳面です。この時には、本郷と枝郷で永2貫827文を集めることになっていました。これは、鐚銭10貫472文に当たり、米1石に付き鐚銭255文5分の割合で金を集めています。