領主は、基本的に自分の領地のすべての土地を課税対象とすることができましたが、課税できない土地もありました。例えば、寺社領には朱印地・除地があり、基本的に領主は年貢を課税できませんでした。この他、場所によっては、領主との由緒や特別な役を任されていたため年貢が免除になっていたところもありました。
 天候不順や災害などによって飢饉や凶作に見舞われた時、村では領主に年貢の減免を願い出ました。領主にとって定免法は、一定の年貢を確保できるものでしたが、飢饉などで収穫高が落ち込んだ時には検見法に変更するなどして年貢を減免することもありました。

伊奈忠次寺領安堵状

慶長6年(1601)伊奈忠次寺領安堵状

 これは、代官頭伊奈忠次が遠江国引佐郡大福寺村の阿弥陀領(現静岡県引佐郡三ヶ日町)に宛てた安堵状です。
 遠江国は、江戸時代の初めから徳川家の直轄領となっていましたが、この時、代官から寺院に対して従来の領地の領有を認める安堵状が出されました。
 こうした寺社領は、徳川幕府が成立すると朱印地・除地となっていき、安堵状も将軍が出すようになりました。

定式御救安石代二付願書

(江戸時代)定式御救安石代二付願書

 羽州村山郡の幕府領では、年貢を米の代わりにお金で納めていた村々がありました(=石代納)。
 村々の代表者が年貢米の値段を相場より低い価格で納めさせてほしい旨(=安石代)を願い出た時の願書の写しです。

御検見二付諸入用調落割賦

慶応2年(1866)御検見二付諸入用調落割賦

 慶応2年に羽州村山郡入間村では、凶作のため定免法から検見法への切り替えが行われ、この時にかかった経費は村の中で割り合いました。
 村では、役人が検見を行うために村に来た時にかかった経費も負担しています。

戒石銘

 二本松藩主丹羽高寛が藩士の戒めとするために中国の碑文を刻ませ、寛延2年(1749)に完成させました。
 碑文には、「武士の俸給は人民があぶらして働いたものである」といった意味が書かれています。