江戸時代には、年貢以外にも様々な役が課せられていました。
 例えば、商工業者には運上・冥加が課せられました。また、その地域の特産物もこうした諸役の対象になりました。この内、酒造業は、米を大量に使うため米相場に大きな影響力を及ぼしました。このため徳川幕府が全国に向けて酒造制限令を出すことがありました。酒造の制限は、普段は領主が独自に行っていましたが、幕府から制限令が出された時にはこれに従わなければなりませんでした。
 また、幕府は国役金を全国または特定の国に対して国家行事、例えば朝鮮通信使が来た時や主要な河川の普請を行う時に賦課していました。また、全国の交通網を維持するため、主要な街道沿いの村々は各宿場の助郷(村)に指定されていました。助郷に指定された村では、宿場を補助するために人馬の供給を行うことを義務づけられていました。

地図
差上申御請書之事

天保5年(1834)差上申御請書之事

 徳川幕府が天保5年に全国に向けて出した三分一造石令に対して、信州小諸藩領の村が出した請書の控えです(史料は後世に写されたもの)。
 天保期(1830〜1843)は、天保の飢饉が起こるなど全国的に凶作に見舞われた時期でした。こうした際には、徳川幕府ではたびたび酒造制限令を出しています。

覚

安永3年(1774)覚

 安永2年に利根川・荒川・江戸川の御普請のため、武蔵・常陸・上野・下野の各国にかけられた国役金の受取状です。この時には高100石に付き銀4匁7分余りずつ割り当てられていました。
 国役金は、徳川幕府の命によって、国役金を負担する国に当たった領主や代官が村々から集めて徳川幕府の勘定所に納めました。

助郷人馬勤高書上帳

嘉永4年(1851)助郷人馬勤高書上帳

 田野倉村ほか2か村が甲州道中の中初狩宿と下初狩宿の助郷人馬を勤める時の人数・馬数を書き上げたものです。
 人足や馬の負担は、村高の大小によって決められました。村高は、助郷の勤め高の基準となっていました。