3.年貢の課税・納入(その1)
年貢を課税するに当たって、領主は自分の領地の村に宛てて「年貢割付状」を出し、その年の年貢の額を通知しました。
「年貢割付状」を受けて、村では領主から通知された年貢を村の百姓ごとに耕作地とその石高(米の収穫高)をまとめた名寄帳をもとに割り当てを決めました。
また、年貢の課税方法には、主に検見法と定免法の二つの方法がありました。
検見法は、一年ごとに収穫高を調査した上で課税するもので、年貢の額は、その年の収穫高に大きく左右されました。これに対して定免法は、過去の収穫高をもとにして一定期間同額の年貢を課税するというもので、年貢の額は、その年の収穫高に左右されることなく一定の額が確保されました。
江戸時代には、領主は、年貢の取り集め及び納入を村に任せていました。これを「村請制」といいます。
村では、年貢を取り集めた後、領主に納めましたが、何回かに分けて納めることもありました。そして、すべて納入が終わると領主から「年貢皆済目録」が村に宛てて出されました。これは領主がその年の年貢を確かに受け取ったことを通知したもので、これをもって年貢に関する一年間の手続きが終了しました。なお、幕府領の場合、こうした通知は、徳川幕府の直臣である代官や郡代が出しました。
また、年貢などの取り集めにかかった経費は村で負担していました。村によっては集めた年貢米などを近くの町や港まで運ぶ村もありましたが、こうした年貢米などの輸送にかかった経費もまた村で負担していました。
宝暦9年(1759)夘御年貢可納割附之事
冒頭に「前々定免」と記されており、越前加賀白山麓新保村(現石川県小松市)では、宝暦9年以前から定免法が行われていたことがわかります。
弘化2年(1845)高反別小前名寄帳丸写
百姓一人一人の耕作地がまとめて記されています。また、耕作地については、一か所ごとに等級・反別・土地の種類が記されています。
「耕稼春秋」
「耕稼春秋」は、加賀藩の十村役であった土屋又三郎が著した本で、農業の様子、稲・野菜・畑作などの農業技術や田地の面積の計算、農具の図解などが記されています。
なお、十村役とは、加賀藩で設けられた役職の一つで、藩で選ばれた大百姓がその任にあたり、藩の奉行と村との間に立って数十か村の村々をとりまとめる役でした。
ここで上げている「耕稼春秋」は、この「耕稼春秋」の続編にあたるもので、加賀藩の城下町である加賀国金沢の近郊農村の一年間の農業の風景を描いたものです。
(1) 「耕稼春秋」“収穫”
九月になると、村では収穫の時期を迎えます。村の家々では、稲刈りが終わった後に、稲を束にして田から家に持ち帰りました。
(2) 「耕稼春秋」“蔵入れの祝い”
村では、稲束を家の蔵にしまい終わると家でお祝いをしました。
この後、田に残った落穂を拾って稲の取り入れがすべて終わると、村では一日休日をとりました。
(3) 「耕稼春秋」“年貢米の輸送”
収穫された稲はまず、稲扱をします。そして扱きためた籾からごみなどをとった後、木臼にかけて摺って米にしました。その後、俵詰めがすんだ年貢米を町まで運びます。
(4) 「耕稼春秋」“御蔵入”
町まで運ばれた年貢米は、領主の御蔵まで運ばれ、まず間違いがないかどうか年貢米をもう一度計りなおします。この後、年貢米は領主の御蔵の中に運び込まれ、年貢の納入が終わります。