それぞれの個別の税法には、災害などによる租税の減免や延納の規定があります。例えば、明治期の国税の中心であった地租については、明治17年(1884)の地租条例の中に、災害で農地などが荒地となった場合の免租規定がありました。しかし、個々の税法だけでは対処できない大規模な災害の場合、特別処分法で、減免などの特別処分がなされました。
 最初は、明治24年(1891)の濃尾地震に対する震災地方租税特別処分法です。岐阜・愛知などの5県を対象に、被害に応じて地租の延納や酒造税の減免などが認められました。
 当時の災害に対する特別処分は、その都度、帝国議会で法律を定める必要がありました。そのため、会期の関係などから災害に迅速に対応することが困難でした。そこで、明治34年(1901)、水害で収穫皆無となった田畑の地租免除を認める法律が制定され、特別立法を待たずに罹災後30日以内に免租の申請ができるようになりました。
 しかし、この法律は、収穫皆無の原因を水害に限定していました。そのため、他の災害には、従来通り個別の特別立法による対応となりました。明治36年(1903)2月、災害地地租延納に関する緊急勅令が公布され、災害と天候不順による収穫皆無地の地租延納が認められました。この緊急勅令は同年6月に法律となりました。水害は地租免除、他の災害は地租延納の2つの措置が確立しました。
 そして、大正3年(1914)2月の災害地地租免除法により、水害以外の収穫皆無にも地租免除が認められることになりました。

文政13年(1830)閏3月「入間口新田の年貢免除願書」

文政13年(1830)閏3月「入間口新田の年貢免除願書」

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(入間幸補氏 寄贈)

 出羽国村山郡入間村(現山形県西村山郡西川町)にあった「入間口新田」に関する願書です。地主が代官に年貢の免除を求めています。
 この願書の記載によると、入間口新田は文化元年(1804)の地震で水持ちが悪くなり、毎年各所に旱損の場所ができるようになりました。ひどい年には、年貢分の収穫も得られません。さらに、文政13年(1830)に山崩れが起き、用水施設が土砂に埋もれてしまいました。再開発をするにも、耕作用の水を確保する手段がありません。また、畑作地に転用するにも、元々の生産性が低いので耕地として維持することは難しいと述べられています。
 以上の経緯を理由に、入間口新田の耕作を放棄する代わりに、その分の年貢の免除を願い出ているのです。

文政13年(1830)閏3月「入間口新田の略絵図」

文政13年(1830)閏3月「入間口新田の略絵図」

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(入間幸補氏 寄贈)

 年貢免除願書に添付されていた略絵図です。問題となっていた入間口新田などの場所が記載されています。
 絵図の下側を見ると、寒河江川が南から北に向かって流れています。同河川は、山形県を代表する最上川の支流のひとつで、その最上流に位置しています。絵図でも中央から上側に山々が描かれており、入間村が山寄りの村ということが分かります。絵図の右下に、家のような骨組みが描かれているところが、入間村です。集落は川の沿岸にあります。入間口新田は、集落から離れて、ひとつ山側に描かれています。より険しい場所にあったことを窺わせます。

災害に対する税の特別立法一覧(関東大震災前)

災害に対する税の特別立法一覧

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明治33年(1900)「潮風被害地の地租に関する請願書」

明治33年(1900)「潮風被害地の地租に関する請願書」

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(吉牟田勲氏 寄贈)

 この史料は、静岡県の3郡19か町村の町村長が、救済を求めた請願書です。
 9月に起きた「潮風」は、田畑に大きな被害を与えました。「潮風」とは、暴風が海水を巻き上げて吹き散らすことで、塩害によって農作物を枯死させます。原因の暴風は、降雨の記録がないので、竜巻だったと思われます。一部の被害地区では、前年の高潮でも洪水被害を受けており、2年連続の被災でした。
 そこで町村長たちは、濃尾地震のときに特別処分法が制定されたことなどを範例に、「潮風」被害に対する特別処分法の制定およびそれに伴う地租の免除を衆議院に請願しているのです。
 この請願は、地元選出議員の働きもあり、明治34年の水害地方田畑地租免除ニ関スル法律の附則で救済されることになりました。

水害写真

水害写真

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(鈴川停車場 富士市立博物館提供)

 この写真は、明治32年(1899)の高潮により冠水した鈴川停車場(現JR吉原駅)を撮影したものです。駿河湾に面した田子の浦や鈴川沿岸は、古くから高潮や高波の被害に悩まされてきました。
 同年10月、台風の影響によって、高潮がこの地一帯を襲いました。田子浦村(現静岡県富士市)では堤防が破壊され、沼川や潤井川河口からは高波が遡っていきました。元吉原村(現静岡県富士市)鈴川でも、停車場近くの商業地区が冠水し、大きな被害となりました。

明治35年(1902)11月「雹害地の地租免除に関する請願書」

明治35年(1902)11月「雹害地の地租免除に関する請願書」

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(二見明氏 寄贈)

 この史料は、栃木県河内郡上三川町(現栃木県河内郡上三川町)の被災者が、救済を求めた請願書です。同町は、明治35年(1902)9月に2つの大きな災害に見舞われました。19日に雹が降り、稲作が「収穫皆無」になりました。次いで28日に「足尾台風」に襲われました。
 この前年の明治34年(1901)に水害地方田畑地租免除法が施行されていましたが、対象は水害に限られていました。そこで、同町の被災者は、特別立法による地租免除を請願したのです。
 このような被災者の請願運動は、翌36年(1903)2月に出された災害地の地租延納に関する緊急勅令につながります。災害全般を原因とする「収穫皆無地」の地租の延納が認められるようになったのです。

水害写真

水害写真

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(木村作次郎「壬寅歳暴風雨紀念写真帖」国立国会図書館提供)

 この写真は、明治35年(1902)の「足尾台風」による栃木県上三川町の被害状況を示すものです。
 この台風は、9月28日に千葉県から関東地方に上陸し、新潟県から日本海に抜け、北海道に再上陸しました。関東地方から東北地方南部に大きな被害をもたらしました。栃木県では、鬼怒川の堤防が決壊して大洪水となったほか、渡良瀬川の洪水により、足尾で大きな被害がでました。そのため、この台風は「足尾台風」と呼ばれるようになったのです。

目次

災害からの復興と税

  1. 地租の時代
  2. 関東大震災と税務署の対応
  3. 災害減免法の成立
  4. 平成の大震災