明治時代に入ると、酒造業者の間で酒造組合を作ろうとする動きが出て来ました。
この後、明治17年(1884)に農商務省による「同業組合準則」が府県に通達されたことも影響し、各地に組合が結成されていきました。当時の酒造組合の主な共通の目的は酒税の増税への対応でした。
明治31年には、府県又は税務署の所轄地域を一区域とする酒造組合を設けることになりました。さらに、明治32年には、酒造組合規則が制定され、組合員は協同で営業上の弊害を矯正し信用を保持することとしました。この他、同規則には酒造税の徴収を確実にするための規定が盛り込まれました。この後、明治38年に酒造組合法が制定され、法的に酒造組合連合会を設置することになりました。
各酒造組合では、組合間の内部規制と技術向上を図り、組合内で品評会や研究会を行ったり、組合内で造られた酒を外部の品評会に出品しました。
この規約は、明治17年の県の布達(=「同業組合準則」)に準拠し、酒造業組合で団結して合議によって作られました。夷隅郡酒造組合は、大原・勝浦・苅谷・大多喜の4組で構成され、新規に酒造の営業を行う者は、組合の取締役の許可が必要になりました。
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福井県下酒造家連合会本部に所属する酒造組合の一覧表。酒造組合は、清酒の部、味醂の部、焼酎の部に分かれており、市・町・郡などの酒造組合別に構成人数・醸造高が掲載されています。
三多摩郡酒造組合は、西・南・北多摩の三郡の酒類製造営業人で組織され、八王子に事務所が置かれました。本組合では、営業上の方針を同一にし、従来の弊風(へいふう)を矯正することが目的とされ、醸造法や販売方法の改良などを行いました。
長野県酒造組合連合会が主催した清酒改良法講演会の修得証。こうした講習会は、全国の県で行われていました。
これは、佐渡酒造組合の活動記録です。酒造組合では、酒価の調整や、醸造協会主催の酒造講習会への組合員の派遣、組合内における清酒品評会の開催など様々な活動を行っていました。
大正11年から大正13年までの酒造品評会の結果を相撲番付の形にしたもの。品評会は年に2回行われていたため、番付は春場所・秋場所に分かれています
この大会では、緊縮財政による醸造試験所廃止に対する反対運動の結果、その存続が決まった旨が報告されました。大蔵省主税局長兼醸造試験所長菅原通敬(みちよし)が演説などのため、また東京府知事久保田政周(きよちか)が祝辞のため来会しています。
『酒造組合中央会沿革史』第1編所収