明治29年(1896)10月に酒造税法が制定されました。この後、日清戦争後の軍備拡張と官営企業への財政支出が増大し、間接税を中心に増税が行われました。これに伴い、酒税は明治29年〜34年までの5年間で3回増税が行われ、明治32年には酒税の国税に占める割合が35.5%となり、それまで国税の税収のトップであった地租を抜いて国税の税収第1位となりました。その後、同37年に地租に逆転されましたが、同42年から再び国税の税収の第1位になりました(大正7年(1918)に所得税に抜かれるまで)。
 明治29年には税務署が誕生し、明治34年の酒造税法施行規則の一部改正に伴い、酒類の製造者は、製造場及び製造する酒類を決め免許申請書を所轄の税務署に提出しました。こうした中、明治32年から自家用酒の製造が全面的に禁止となり、また相次ぐ酒税の増税によって酒価が高騰したため密造が増加しました。このため、密造取締りが強化され、税務署の間税職員による犯則調査も行われました。

税務署と酒類業者

(グラフ)税務署と酒類業者
「酒造税法施行規則(明治35年改正時)」より


醸造要報(第1号) 明治35年(1902)2月6日

(写真)議定連名帳
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 東京市本郷区合名会社益池商店発行。雑録では、熊本税務管理局鑑定課による清酒醸造新法の試験、佐賀県酒造研究所の設立、明治34年10月に開場した出雲酒類醸造試験場の活動などを伝えています。

醸造雑誌 明治時代

(写真)議定連名帳
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 醸造雑誌は、栃木県の海老原幸二郎によって明治21年(1888)から発刊されました。この雑誌は、酒造業者に対する新しい技術の成果や基本的な酒造技術の指導に大きな役割を果たしました。


諸届書扣(ひかえ) 明治42年度(1909)

(写真)議定連名帳
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 酒造業者が清酒を造る際、見込石数・製造方法・仕込数及び着手の時期を谷田部税務署長(谷田部税務署は同年土浦税務署に併合)に申告しています。この業者は、この他にも様々な酒造に関する届を税務署長に出しています。

麹蓋(酒造器具) 〔明治29年〕

(写真)議定連名帳
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 酒造業者が酒造道具の検査・検定を受けた証として仙台税務管理局の検印が押されています。このため、明治29年(1896)から35年(1902)の間に検査・検印を受けていることがわかります。


間税職員の制服

(写真)間税職員の制服
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 これは、大正10年(1921)頃の写真です。
 後ろの二人が着用しているのは、間税職員の制服です。
 間税職員の制服は、セビロ型として明治33年(1900)1月に制定されました。明治45年1月に、制服はセビロ型から詰め襟型に変わり、黒または濃紺の他、夏服として白または鼠色の麻布を用いることが許可されています。
 なお、間税職員の制服は、大正14年4月1日をもって廃止されています。

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明治の酒税