2.宅地地価修正の実施
日露戦争(1904〜5)後、鉄道の発達などで都市化が進み、都市と農村とでは、課税地価にも、地租にも、不公平が広がりました。
明治四三年(1910)に成立した宅地地価修正法は、宅地の地価を引き上げ、都市と農村とで、地租負担の不公平を解消するねらいがありました。
税務当局では、明治39年頃から準備調査を重ね、宅地賃貸価格の調査、宅地賃貸価格調査委員の選出、土地検査などを進め、宅地地価修正法の成立後、新しい宅地地価と地租を実施に移しました。
宅地地価は、調査済み賃貸価格の10倍とし、急激な増価を避けるため、市街宅地は現在地価の18倍、郡村宅地は7.2倍の上限を設けました。修正前と比べると、全国平均で市街宅地は約8倍、郡村宅地は約3倍に、引き上げられました。
また、地目変換後の地価据置き期限を廃止し、変換後は直ちに地価を修正するように改めました。そのため、農地から宅地への変換などは、直ちに地価が修正されることになり、宅地化の進む都市の地租収入が、増えるようになりました。
秋田税務監督局管内の
(現 仙台国税局)
鉄道駅付近編級図
明治43年(1910)頃
秋田税務監督局は、青森・秋田・山形の三県を管轄しました。
大蔵省では税務監督局ごとに、管内の市街宅地、郡村宅地について、地位等級の均衡を得るため、このような鉄道駅附近の編級図を作成させ、全国的な統一を得る基礎としました。
若松市の宅地地価修正用地図 明治43年(1910)頃
(現 福島県会津若松市)
若松市の宅地地価修正用地図です。
宅地地価修正では、都市と農村の宅地を調査しました。その際、宅地の等級などを明確にするため、このような地籍図が作成されました。
沼田税務署(現 群馬県沼田市)の訓達簿
明治41年(1908)〜大正2年(1913)
沼田税務署の署長が、訓示等を書き写し、署員に回付した際の書類が綴じ込んであります。
明治43年の宅地地価修正では、土地検査などが酷暑のなかで行われ、7月21日に
「然ルニ今亦酷暑ノ節ニ入リ、土地検査トシテ出張ヲ命スルノ止ムヲ得サル場合トナレリ、諸氏ノ熱誠ヤ必其任務ニ堪ユルノ覚悟ト決心トヲ有スヘキモ、永ク室内ニ執務シ、遽ニ出テヽ、酷暑ト闘フモノナルカ故ニ、須ラク衛生ニ注意」
するようにという注意が出されています。また11月14日には
「宅地々価修正事務ニ付、各員ノ熱誠尽力ヲ以テ調査、尤モ円満ニ終了シ、此事蹟ノ如キ、全局第一位ヲ占メタル栄誉ニ対シ、河田局長ノ謝意、及事務ノ整理ニ付、有終ノ美ヲ得ルニ努ムヘキ旨伝達シ、来状ヲ便宜回覧ニ附セリ」
と沼田税務署が宇都宮監督局(栃木・茨城・群馬の三県管轄)中第一位の成績であったことから、局長の河田貫三から謝意が伝えられています。
宅地地価修正事業ノ経過及結果
明治43年(1910)
全国の宅地地価修正事業を主導した、大蔵省主税局による同事業誌です。
宅地地価の修正に当り、その基礎を「賃貸価格」としたことから、賃貸価格の調査およびその全国的な均衡と統一を図ることが最重要と強調しています。
地価地租等 | 宅地 | |||
---|---|---|---|---|
市街宅地 | 郡村宅地 | 合計 | 税率 | |
修正前地価 | 3800万円 | 1億600万円 | 1億4400万円 | |
修正地価 | 3億1500万円 | 3億2600万円 | 6億4100万円 | |
(修正地価の修正前地価に対する割合) | 820%増 | 300%増 | 440%増 | |
修正前地租 | 763万円 | 849万円 | 1612万円 | 市街宅地20% 郡村宅地8% |
修正地租 | 789万円 | 815万円 | 1604万円 | 宅地2.5% |
(修正地租の修正前地租に対する割合) | 3%増 | 4%減 | 1%減 |
(注)『明治大正財政史』第6巻による。修正後に市街、郡村の別を廃止。
小木村(現 石川県珠洲郡内浦町)の宅地地価修正地図
明治43年(1910)頃
小木村の宅地地価修正用地図で、乙図に相当します。宅地地価修正では、次のような甲図と乙図の地籍図を作成しました。
甲図 山川、溝渠、道路、宅地の所在を示す。
乙図 毎筆の位置、形状、地番、周囲の状況を示す。
中野税務署管内の
(現 信濃中野税務署)
宅地賃貸価格調査委員
明治43年(1910)
長野県の中野税務署管内の宅地賃貸価格調査委員です。
税務署管内ごとに選挙人を選び、さらに選挙人の互選で調査委員を選びました。この当選者で構成される調査委員会が宅地賃貸価格を審議し、評決しました。
税務署職員への賞与辞令
明治44年(1911)
税務職員による調査事務の尽力に対して、賞与が支給されました。