1.地租改正の実施
明治6年(1873)から地租改正で定めた課税地価は、市街地の広がる町と周辺の村で、大いに異なりました。
市街地の調査は、全国で200か所あまり実施し、その大部分は城下町でした。
城下町の多くでは、まだ「武家地」、「町地」などの居住区分がありました。その上、地積の入り組みや細分化が激しく、調査も緻密さが求められました。課税地価は、売買地価や賃貸料などを基準とし、等級も細かく分け、定めました。
これに対し全国的に広大な村の課税地価は、米の収穫量を基準に定めました。
地価に地租が課税されます。当期の地租は、農村を中心とするといわれています。理由は、従前の村の年貢収入額を下回らないよう、税率を3パーセント(明治10年2.5パーセントに減税)としたこと、村の課税地積が圧倒的に広大であったこと、などがあげられます。
仙台城下絵図
寛文9年(1669)
仙台城は、戦国の名将伊達政宗により築かれました。城下町は広瀬川の東側一帯に広がっています。
町を南北に貫く奥州街道(現国道4号)に沿うように、大町、国分町などの「町人地」、これらを取り囲むように「武家地」など、そして町の外郭に「寺町」などが、設けられています。
(宮城県図書館所蔵)
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会津鶴ヶ城下図
享保18年(1733)
会津鶴ヶ城下の地図にあるように、江戸時代の代表的な都市である城下町は、城郭を中心として、「武家地」と「町人地」が明確に区分されていました。
明治維新後に、武家地は士族邸地とかわりましたが、地租改正で行われた市街地調査の多くは、このような城下町が対象でした。
万願寺の地租改正地引絵図 明治13年(1880)
(現 奈良県大和郡山市満願寺町)
万願寺村の地租改正地引絵図です。
地租改正地引絵図は田、畑、宅地、墓所、神社、あるいは道路、河川などの位置、地目が、一目瞭然となるように、地番を付して図示した地籍図です。
松島村の田畑宅地等級表
(現 宮城県宮城郡松島町)
明治11年(1878)
松島村は、仙台市街の北東海岸部に位置する村です。
同村の等級調べでは、田は3等、畑は2等、宅地は3等に区分されています。
一般的に、村の等級数は少なく、宅地の込み合う町は多くなります。
市街宅地及耕地等地価調査心得方細目
明治8年(1875)
仙台市街の宅地は、1か年の100坪当り貸地料から、村費・地租を引き去って所得を算出し、この所得を5%の利子率で除して地価を求めるという、資本還元方式の採用が指示されています。
陸前国仙台市街地位等級表
明治10年(1877)
国分町の地券大牒
明治11年(1878)
(現 宮城県仙台市青葉区国分町)
仙台の市街地で、1等地に評価された国分町1番地は、宅地が99坪あまり、地価は139円あまり、地租は4円19銭7厘(3パーセント)でした。
「地券大牒(帳)」は、地主に交付する地券の台帳で、府県庁が管理しました。
横網町の改正地券
明治11年(1878)
(現 東京都墨田区横網町)
東京府本所横網町の土地表示単位は坪ですから、地租改正では市街地として調査が行われました。
横網町8番地の宅地は、面積164坪あまり、地価295円あまり、地租7円37銭あまり(税率2.5パーセント)です。1坪当りの地価は1円80銭、地租は4銭4厘となります。
谷中本村の改正地券
明治12年(1879)
(現 東京都荒川区日暮里町)
東京府北豊島郡谷中本村は、地租改正では郡村地として調査が行われました。
谷中本村1136番地の郡村宅地は、面積2畝3歩(63坪)、地価14円56銭1厘、地租36銭4厘です。1坪当たりでは、地価23銭1厘、地租5厘となります。