律令時代の税にかかわる用語には「租税」がよく使われ、江戸時代には「年貢」がよく使われました。
 明治のはじめ、王政に復古するということで、税の用語も、再び租税が使われるようになり、年貢米は租税米、年貢金は租税金、と呼ばれるようになります。
 「税金」という言葉は、この租税金から生まれたと考えられますが、明治5年(1872)の『田税新法』でも、同6年の「地租改正法」にも、税金の文字が使われています。地租改正で、従前の年貢米は税金で納めるようになりますが、税金という新しい用語は、税制度の大きな切り換わりを、非常によく伝えているといえます。
 江戸幕府の年貢金は、厳重な警備のもとに、現金のまま、江戸城などの金蔵に運ばれました。
 明治2年(1869)に創設された大蔵省では、税金の地方から中央への送金を、府県為替方などの金融業者に委託しました。したがって、大蔵省の庁舎へ納金されるまで、税金の現送には、「為替」という合理的な方法が採用されることになりました。
 納税者の支払った税金は、戸長−府県庁−府県為替方−大蔵省といった、国税金の取り扱い制度を通して、大蔵省の金庫に納まりました。国税金取り扱いの制度は、その後、しばしば改変されました。しかし明治15年(1882)に日本銀行が設けられると、国税金など国庫金の取り扱いは、すべて日本銀行が行うことになりました。

国税金の流れ

 地租などの国税事務は戸長・戸長役場で行うようになり、税金は郡役所、税金預り人、収税委員などの手を経て大蔵省に納金されました。
 納税者は、税金を役場に納めるだけで納税手続きが済むようになり、米納に比べて官民の負担は激減しました。

辞令

辞令(副戸長申付) 明治6年(1873)

 度会県(わた らい けん)(三重県)が発給した、第1大区小7区の副戸長任命辞令です。

戸長事務引渡御届ケ

戸長事務引渡御届ケ 明治12年(1879)

 栃ケ原村(新潟県高柳町)の戸長役場における、事務引き継ぎの書類です。
 明治11年、郡区町村編制法が施行され、郡には郡長、区には区長、町村には戸長が置かれることになりました。戸長役場では、戸長が納税事務をはじめとする町村の行政事務を行いました。

国税金領収順序

国税金領収順序 明治11年(1878)

 明治11年11月、大蔵省は「国税金領収順序」を定め、国税の取り扱いを明確にしました。
 これにより、各府県に大蔵省出納局が管理する税金預り所が新設され、そこで税金預り人が国税を預かる仕事をしました。また、租税局から収税委員が各地に派遣されて、徴収事務の監視などを行いました。

地租金及通

地租金及通 明治9年(1876)

 山形県第2大区4小区の区務所が作成した地租金の帳面で、納税者別に、受領した地租金を記しています。

辞令(国税金未納二付出張)

辞令(国税金未納二付出張) 明治12年(1879)

 明治11年、郡区町村編制法の公布により、府県に、郡役所が設けられることになりました。
 郡役所は戸長役場と県庁とのあいだで、国税事務などを行いました。