『田税新法』では、新政府が継承した年貢制度の問題点として、虫害・ネズミ害・難破・水かぶり・関係者の不正・米価変動などによる税収の不安定と予算化の難しさ、運賃、保管費、豊凶調査、米質や容量検査にかかる経費の膨大さなどを指摘しています。
 また、この年頁制度にかえて沽券税法を導入し、田畑の売買を許し、土地ごとに沽券、すなわち地券を発行し、土地の自由な販売を通して形成された地価を沽券に記載した上で、これを課税標準として地租を税金で納税する、地券の制度を提唱しています。
 神田孝平の提唱を基礎に導入されたのが、市街地地券・郡村地券などの「地券之証」で、明治5年(1872)の干支(え と)にちなみ、壬申(じん しん)地券と総称されています。
 土地の売買を通して地価という課税標準を定める構想は、全国のあらゆる土地が売買されることを前提とした、まことに遠大な計画でした。しかし、短年月の実現が相当に困難なことが予測されたことから、新政府は明治6年の地租改正法により、法定の地価を課税標準とする「地券」を新しく導入することにしました。

地券之証(発行者は兵庫県令神田孝平)

地租改正測量の図1
地租改正測量の図2
地租改正測量の図3

地租改正測量の図(秋田県立博物館所蔵)(1872)

地租改正方法草案

地租改正方法草案 明治6年(1873)

 大蔵省は、明治6年4月、全国の府県官を一堂に集め、地租改正について話し合いました。
 これは、宮城県に残された史料で、会議に提出された地租改正法の草案などがあり、原案が会議のなかでどのように修正されたのかを知ることができます。

地租改正法

地租改正法 明治6年(1873)

 地租改正法は、明治6年7月、太政官布告第272号として公布され、地租改正条例・地租改正施行規則・地方官心得書、の三法により構成されます。
 地租改正では、土地の所有者を確定し、土地の収益を基礎に地価を算出して、その3パーセント(明治10年に2.5パーセントに引き下げる)を、地租として課税することにし、納税は「税金」で行うことが定められました。

地券

地券 明治11年〜12年(1878〜79)

 地租改正に際して、地主に交付された土地の権利証です。地券に表示された地価にもとづいて、その3パーセント(のち2.5パーセント)を、地租として課税しました。
 これにより、新政府は毎年一定税率の地租収入が得られるようになりました。