江戸幕府による税の制度では、年貢は米で納める現物納を原則としました。しかし年貢米は、虫食い、ネズミの食害、運送船の難破、海水による水かぶりなどの損失があり、運送業者などによる不正も多くあって、税収は不安定でした。
 また米は運賃や保管費がかかる上に、豊凶をみる収穫調査や、年貢として適うかどうかの米質検査と、米俵の定量検査などもあり、徴収にかかる経費は莫大でした。
 さらに納入された米は売却して収入としたため、米価の変動により収入も変動することになり、毎年の財政収入はきわめて不安定で、予算も立てにくかったのです。
 明治新政府は、このような年貢制度を改めるため、明治6年(1873)から同14年にかけて、地租改正という税制度の改革を、全国的に実施しました。
 地租改正では、土地の収益を基本として定めた地価に対し、一定税率の地租を課税することにし、地租は税金で納税することに改めました。
 納税が税金で行われることになり、現物納にかかわる莫大な徴収経費や、税収の不安定さは消滅しました。また毎年一定額の地租が確保できるようになったため、財政収入は安定し、予算も立てやすくなりました。
 江戸時代の年貢は、村全体で納税の責任を負う村請制でした。地租改正で設けられた地租は、土地の所有者を納税の責任者としたため、村請制も消滅しました。

(史料)幕府の米納と金納の割合
(史料)租税米の検査

浅草御蔵での租税米検査は、納税する村ごとに、米質検査(虫食いや変色など)はすべての米俵に対して行い、また規定の1俵4斗という米量検査は、くじ引きにより抽出した米俵の検査結果で判断しました。
 帯同した代官の手代と納名主(おさめなぬし)などの目前で厳重な検査が行われ、検査に通って初めて納税手続きが完了しました。

(史料)田税新法表紙

(史料)田税新法

田税新法 明治5年(1872)

 神田孝平は、幕末から明治にかけての洋学者・啓蒙思想家で、明治政府のもとで、官僚も務めました。
 神田が明治3年(1870)に著した『田租改革建議』は、地租改正の地券制度に大きな役割を果たしました。同著の再刊にあたる『田税新法』は、年貢制度と沽券税法(地券制度のこと)の問題点を指摘したうえで、沽券税法の導入を、強い調子で提議しています。