相続税と路線価

 江戸時代の相続は、相続者は長男、または男子が基本でした。「家」の相続は、武士から百姓までいずれの身分にとっても大きな問題であったということができます。例えば百姓は、先祖伝来の土地が大切とされ、村では百姓株を設定し「家」が潰れた場合には村の中で調整して株を相続させることで「家」の維持を図ることもありました。
 江戸時代には、武士は屋敷、領地、家禄に対して非課税でしたが自分の主君に対して「御役(おやく)」を勤めていました。また、商人の場合は土地・店は基本的に非課税でしたが、商品の売上については運上・冥加(みょうが)と呼ばれる営業税・営業免許税が課税されていました。これに対して百姓は土地そのものには課税されず田畑の収穫物に年貢が課税され、農業の合間に行う農間渡世と呼ばれる副業に対して運上・冥加が課税されました。このように、江戸時代には、土地など現代において財産・資産にあたる物に対しては非課税である場合が多かったのです。こうした財産に対する課税の中、江戸時代には相続時の課税は行われていませんでした。日本で相続税が創設されたのは、明治38年(1905)のことでした。明治時代から戦後まで日本には、家・戸主の制とともに家督相続の制(家督相続は単独相続)がありました。創設当時の相続税は、この点を考慮し家督相続・遺産相続に分けて課税することで「家」の保護を行い、これは戦後まで維持されました。
 ところで、相続の際に大きな意味を持つのが遺言です。江戸時代の村では、現代における戸籍のような制度があり、誕生すると村の一員として宗門人別帳と呼ばれる帳面に登録し、結婚などの理由で移住した場合には宗旨送り手形を移住先の村に出して登録替えを行いました。そして、死去すると宗門人別帳から抹消されましたが、このサイクルの中で遺言が作成されたり遺産贈与の手続きなどがとられることがありました。
 ここでは、江戸時代のある百姓が遺した遺言について見てみましょう。租税史料室では、羽州入間村(現在の山形県西川町)の名主家の文書である入間家文書を所蔵しています。この入間家文書の中に、入間常右衛門(宝暦3年(1753)生―天保14年(1843)死去)の筆による寛政7年(1795)1月14日「書残」、天保4年(1833)2月9日「戯草案」、天保14年7月7日[遺言状下書]の3つの遺言を確認することができます。この内、寛政7年の「書残」が内容として一番まとまっているものですが、そこには当時の入間村で抱えていた問題が記されています。江戸時代の入間村は、本郷と枝郷と呼ばれる集落に大きく分かれており、領地は幕府の直轄地と藩領があり、村内には明暦年中(1655〜1657)に成立したとされる兵助新田という新田がありました。
 この「書残」では、枝郷が本郷から独立しようとする意識がうかがわれる一件などそれぞれの関係の中で起きた事件が書き留められています。ここから、この「書残」を作成した当時、名主を務める「家」であった入間家に対して常右衛門が伝えたかった内容が分かります(なお、この「書残」は、税務大学校のホームページ、税大論叢のバックナンバー中にある「資料紹介 羽州入間村名主常右衛門の「書残」(多仁照廣)(税大論叢 第14号)」でその内容と解読文が紹介されているのでご参照してみてください)。江戸時代において、「家」の相続は、「家」の責務の存続を担わせるものでもあったのです。
 この他にも、江戸時代の遺言は、大名家や商家、名主家などでも確認されています。これらの内容を解読してみると、江戸時代の遺言は財産分与などについて書かれたものもありますが、家訓的な内容を持つものが見られるのが1つの特徴だったことがわかります。
 なお、その他の租税史料につきましては下記をご覧ください。

(研究調査員 堀 亮一)