はじめに

新潟市歴史博物館は平成二〇年度の企画展として「酒蔵〜近代新潟の酒造り」を開催し、翌平成二一年には葛飾区郷土と天文の博物館が「首都圏の酒造り」として特別展示を開催した。ともに酒関係史料の博捜を積み重ね、精力的に調査を遂げ、絵馬・酒道具・レッテル・ポスター・写真・文書などを駆使して、酒造りとその歴史を一見して理解できるよう見事に描いている。酒税の歴史的な史料を取り扱う税務情報センター租税史料室としても大いに参考となる。ただ無いものねだりをすれば、酒造りと酒税との拘りがあまりないところであろうか。

酒の歴史は古いが、清酒造りが始まるのは江戸時代に入る前の戦国時代で、以降、江戸前期には上方の伊丹、池田などに銘醸地を形成させながら、江戸後期に至り、灘地方に、寒造り三段仕込みが完成、清酒の大量生産が可能となった。伊丹・池田・灘の酒造りを担ったのが丹波杜氏、但馬杜氏、能登杜氏などで、冬場の出稼ぎ労働者集団であった。先進の清酒造り技術を持つ杜氏たちが関東地方、東北地方に進出するようになると、江戸後期にはこれら先進の杜氏から技術を修得して越後杜氏、信濃杜氏、南部杜氏などが生まれた。

上方の銘醸地で生産される酒は主に江戸に運ばれ消費される。酒を輸送したのが菱垣回船、樽回船で、この酒の生産と輸送、消費の体系が一定の段階に達する元禄十年(一六九七)、江戸幕府は幕領・私領に運上銀を課税した。これが酒税の始まりである。それ以前、江戸幕府は物価統制の基本として酒造米統制を重視し、寛政十一年(一六三四)に例年の二分一造りという酒造米制限を始め、明暦三年(一六五七)には酒造株を設定し、酒造家には株鑑札を交付して、鑑札に記載の酒造米石高を基準とする統制を強化しており、運上銀はこの株鑑札所有者に酒代金の五割という高率を課税し、酒造株仲間の代表が運上銀の徴収に当たったのである。運上銀は宝永六年(一七〇九)に一旦廃止したが、安永元年(一七七二)、冥加金として復活した。

水野忠邦の天保改革では株仲間を廃止したが、天保十三年(一八四二)、酒造については酒造株を酒造稼ぎに改め、鑑札を交付し、永久酒造を許すとともに、造石高を酒造米高の三分の二に制限し、かつ冥加金は造石高一〇〇石につき三分とし、以降、幕末まで実施された。

明治に入り、維新政府は江戸時代の酒税を踏襲し課税した。明治四年七月の廃藩置県で全国統一政権が成立すると、近代最初の酒税法令として「清酒濁酒醤油鑑札収与並ニ収税方法規則」を布告したが、内容は江戸時代の酒税と大きな変化は認められなかった。しかし明治十年ごろから酒税法令を相次いで改正し、造石高を課税標準と定め、生産工程にまで踏み込んだ厳格な造酒検査と、酒造家にも課税品たる酒の厳重な管理を求める酒税行政が執行されることになった。

酒税の中央執行機関は慶応四年閏四月設置の会計官が最初で、明治三年七月大蔵省、同四年七月大蔵省租税寮、同十年大蔵省租税局、同十二年租税局出張所、同十七年収税長、同十八年租税検査員派出所、同二十三年府県収税部間税署間税分署、同二十六年府県収税部収税署、同二十九年税務管理局・税務署、同三十五年税務監督局と変遷した。

明治三十二年七月に条約の不平等性を規定する一つ治外法権が撤廃されると、間接税を取り扱う職員に服制を導入した。

日清戦争後の明治二十九年から日露戦争後の同四十一年までの一三年間に酒税率は六回引上げられ、二十九年一石当たり七円が四十一年には同様に二十円と二・六倍ほどの増徴、国税収入の第一位を占めるほどの基幹税となる。一方で造石高は明治十三年五千万石から明治末年には四千石と一千万石も減少した。造石高減少の主要因は腐造問題である。酒税の増徴と酒造石高の減少とは税務当局をして税源の枯渇を意識させ、税源涵養が声高に主張されるようになり、酒造業の改良という酒類行政が実施に移されることになる。

本稿は明治時代の酒税法、酒税の執行機関、酒税の執行、間税職員の制服、酒造方法、酒類の鑑定、醸造試験所、酒造組合、酒類行政などの酒税関係史料を網羅的に収録し、酒造りと酒税との拘りを理解する便宜とした。

一 酒税法令の制定

明治四年(一八七一)七月、廃藩置県の断行で、中央集権国家が成立した。同年同月、酒税についても、税則や取締りが紛雑しては弊害少なからずとして、「国内斉一」の規則を定めた。それが清濁酒醤油醸造株鑑札収与税則(史料1)で、近代最初の酒税法令である。しかし免許料が新規に導入された程度で、清酒と濁酒、醤油と合せて三造の課税、鑑札制度による営業免許、酒代金に課税する従価主義など、江戸時代の酒運上、酒冥加などとあまり変わらない課税制度であった。無免許による商売、すなわち密醸は勿論、取締りの対象であった。

明治八年二月、酒類税則(史料3)を定め、清濁酒醤油醸造株鑑札収与税則を廃止した。酒類は清酒・味淋・焼酎・白酒・銘酒の五種とし、免許料を廃し、免許税を酒造営業税に改め、酒類売捌代価に醸造税を課した。また営業免許の期限をその年十月一日より翌年九月三十日までとしたが、これが酒造年度制度の始まりとされている。それに酒類十石以上醸造の検査は「管轄庁主任ノ官員」の巡視により実施するとしたが、この主任官員とは府県官をさす。同年五月の酒類税則取扱心得書(史料4)では酒造桶類の届出制、醸造税の租税寮への納税などを定めた。

明治十一年九月、酒類税則を追加改正し(史料5)、酒類を清酒・濁酒・白酒・味淋・焼酎・銘酒の六種とし、その造石数に応じて醸造税を課税する従量主義に改めた。この改正は、季節的な変動と地域差が大な酒価に課税することから派生する税収の不安定を解消すること、課税源である平均酒価が酒造家の報告に基づくことから生ずる逋税を防止することにあった(藤原隆男『近代日本酒造業史』)。また造酒検査は地方庁主任官員が検査し、醸造税は地方庁に納税すると改め、従前の租税寮官員の検査、租税寮納税を廃した。さらに同年十一月、酒類税則取扱心得書(史料6)を増補して、諸帳簿、醪、酛、酒造桶類など醸造検査の厳格化を図った。

明治十三年九月、酒造税則(史料7)を定めた。酒造税則では、第一に造石税と改称し増税を行い、第二に酒類請売営業税と行商鑑札付与を廃止し、かつ自家用料酒に制限を加えて清酒市場の拡大を図り、第三に逋税の取り締まりを強化すること、を主眼とする制定であった(藤原隆男『同前』)。同税則では酒類を醸造酒(清酒、濁酒、その他醸造したもの)、蒸溜酒(焼酎、その他蒸留したもの)、再製酒(銘酒・味淋・白酒など醸造、蒸溜の酒類を調和し、またはこれを元として製造したもの)の三種とし、酒造免許税は酒造場一か所ごとに三十円、酒類造石税として一石につき二円などとした。また営業者は必ず造石検査を受けることとし、酒類は八月三十一日までの皆造を義務づけた。

酒造税則では営業者が造酒の搾り器械や蒸溜器械を使用する際には、主任官員が施す封緘の開封請求を営業者に義務づけた。営業者は主任官員の開封許可がないと勝手に造酒を出荷できないこととなった。

同年十一月、酒造税則取扱心得書(史料8)を制定した。同心得書では免許鑑札の授与は租税局の管轄とし、免許証印は府県庁の調整とした。また酒造桶類丈量法を定め、桶類新調などの際には詳細な調査を遂げ、桶の側面に烙印をなすとした。さらに営業者は次のような諸帳簿を調製し、詳細に記入、造石検査の際には参照に供すとしている。

酒造米買入帳 搗米通帳 仕込帳 杜氏仕込帳 酒蔵出帳 酒売上帳
酒貸帳 酒蔵米仕払帳 杜氏并ニ日雇給料帳 荷物判取帳 金銭判取帳
樽貸帳 積出帳 酒粕糠売払帳 酒造諸器械売買扣帳 酒粕目方扣帳

なお同心得書では、銘酒の種類を直酒・保命酒・桑酒・養老酒・菊酒・紫蘇酒・あられ酒・南蛮酒など、としている。酒造税則は次の酒造税法制定まで十五酒造年間にわたり実施した。

日清戦争後、戦後経営費の確保を図る財政事情から、間接税の酒税を増徴し、かつ納税者の便宜と取締りを強化するため、明治二十九年三月、酒造税法(史料24)、同年八月、酒造税法施行規則(史料25)を制定した。酒造税法では免許税の廃止、造石税率の増加、造石税納期の改正、清酒に滓引減量の許可、腐敗酒など免税条件の明確化、納税保証制度の充備、制裁規定の完備など従来の酒造税を集大成し、その徹底化を図ったと指摘されている(『明治財政史』第六巻)。

この外、主な酒税法令は次のように本法と施行規則と共に収録するように努めた。

明治13年9月 醔麹営業税則(史料9)
同13年11月 醔麹営業税則取扱心得書(史料10)
明治21年3月 沖縄県酒類出港税則(史料15)
同21年7月 沖縄県酒類出港税則施行細則(史料16)
明治26年4月 酒精営業税法(史料22)
同26年6月 酒精営業税法施行細則(史料23)
明治29年3月 自家用酒税法(史料26)
同29年8月 自家用酒税法施行規則(史料27)
明治29年3月 混成酒税法(史料28)
同29年8月 混成酒税法施行規則(史料29)
明治33年3月 間接国税犯則者処分法(史料30)
同33年3月 間接国税犯則者処分法施行規則(史料31)
明治34年3月 麦酒税法(史料32)
同34年8月 麦酒税法施行規則(史料33)
明治34年3月 酒精及酒精含有飲料税法(史料34)
同34年8月 酒精及酒精含有飲料税法施行規則(史料35)
明治34年3月 医薬用工業用酒精戻税法(史料36)
同34年8月 医薬用工業用酒精戻税法施行規則(史料37)
明治38年12月 酒母、醪及麹取締法(史料38)
同38年12月 酒母、醪及麹取締法施行規則(史料39)

二 酒税執行機関の変遷

酒税の中央における執行機関は、主につぎのような変遷をたどる。

慶応四年閏四月 会計官設置
慶応四年五月 会計官租税司設置
明治三年七月 大蔵省設置
同四年七月 大蔵省租税寮設置
明治十年一月 大蔵省租税局設置
同十二年十月 租税局出張所設置

明治十一年一月、大蔵省は租税寮を廃して租税局を設けた。翌明治十一年七月に郡区町村編制法が成立すると、政府は国税領収順序を定め、町村の戸長と郡区役所の郡区長に国税金取り扱いを委任、戸長―郡区長―府県知事―大蔵省の国税徴収系統を整え、同年十二月、府県に収税委員出張所を設置して同所に租税局員を派遣し収税事務を担当させることになった。翌明治十二年十月、東京・大阪・名古屋・広島・熊本・仙台の六か所に租税局出張所を設け、国税の収税及び酒税など間接税事務を執行させた。明治十四年八月、租税局出張所を全国二四か所に増設した(史料40)。

明治十七年五月、大蔵省に主税局が設置されると、租税局出張所を廃止し(史料41)、府県に収税長を置いた(史料43)。収税長は大蔵省に直属し、府県の収税属を指揮して、収税事務、収税検査を執行する任務がある(史料44)。

明治十八年八月、「地勢ノ便否、営業者ノ多寡等ヲ酌量」して租税検査区を設け、収税属を検査員に命じて租税検査に従事させるとともに、租税検査区には租税検査員派出所が設けられることになった(史料45)。明治二十一年現在の府県租税検査員派出所を収録した(史料46)。

明治十九年七月、府県に収税部を設け収税長が統轄、同二十二年四月に市制・町村制が施行されると、同年七月、各郡役所・市役所に府県収税部出張所を設け、土地台帳事務など主に直税に係る事務を執り行うことになった(史料47)。翌明治二十三年十月、地方官官制を改め、租税検査員派出所および収税部出張所の事務を統合し、府県収税部に直税署と間税署を設置、直税署は直税の賦課、徴収に関する事務、間税署は間税の賦課、間税犯則者処分に関する事務を取り扱い、かつ府県須要の地に直税分署、間税分署を設けることなどを定めた(史料48)。同年の府県直税署直税分署および間税署間税分署の位置、管轄区域を収録した(史料49)。

明治二十六年十月、地方官官制を改め、府県収税部は国税の賦課、徴収並に間接国税犯則者処分、徴税費に関する事務を執り行い、府県須要の地に収税署を置くことになった(史料50)。明治二十六年段階における府県収税書の位置及び管轄区域を収録した(史料52)

明治二十九年十月、税務管理局官制を制定、税務管理局を設け、税務管理局は大蔵大臣管轄の下に内国税に関する事務を執り行い、税務管理局管轄内須要の地には税務署を置くことになった。各税務署には署長一人を置き、司税官補若しくは税務属を充て、部下の税務属をして庶務及び検査に従事させる任務があった。税務管理局の名称、位置及び管轄区域を収録、税務管理局数は合計二三局である(史料53)。また同年における税務署の位置及び管轄区域を収録、税務署数は五二〇署である(史料54)。

明治三十五年十月、税務監督局官制を制定、税務監督局は大蔵大臣の管理に属し、内国税に関する事務を監督することになった。同年の税務監督局名称、位置及び管轄区域を収録、税務監督局数は一八局である(史料55)。

同年十一月、税務署官制を制定、税務署は大蔵大臣の管理に属し、内国税に関する事務を執行することになった。税務署には税務官、税務属、技手を置く。税務官および税務属の中から税務署長を置き、税務属は署長の指揮を受けて、庶務及び検査に従事、技手は技術に関する事務に従事することになった。同年の税務署位置及び管轄区域を収録したが、税務署数は合計五一三署である(史料56)。

税務署数は、明治三十五年は同二十九年に比べ七署の減である。一年一署減の割合となるが、以降も税務署の統廃合、管轄変更、署名改称などが激しく行われる。

三 酒税の執行

慶応四年五月、京都にあった会計官の達五か条が、酒税に係わる近代最初の執行規則である。未だ戊辰戦争の最中であり、従来の酒鑑札制度を踏襲し、運上も一〇〇石が単位で、二十両に定めた(史料57)。

慶応四年七月、関東八か国の運上冥加は従来、「往古ヨリ少々宛ノ運上冥加永年季亦ハ無年季無冥加ニテ」と区々であったが、「御入用筋モ相掛」として、天保十三年の鑑札を廃止し、酒造家には新しく鑑札を交付するとともに、年々冥加一〇〇石につき三両の課税を定めた。その際「関八州組合村内、組合規則相立、右総代共人物相撰取締申付、………冥加金直同御役所へ上納」と、組合村総代人に取り締りと冥加金上納を申付けた(史料58)。この組合村は関東取締出役の下に文政十年(一八二七)の改革で設置された関東取締組合を指し、総代は組合村の世話役を指す。維新政府は江戸時代の組織を利用し、酒税の課税を実施したのである。

年々冥加は慶応四年八月、一〇〇石につき十両と半減した(史料59)。慶応四年九月に明治と改元。明治元年十二月、一〇〇石につき五両に引き下げた(史料62)。

明治二年七月の版籍奉還後、大蔵省は関東八か国に酒造免許鑑札の交付を達し、さらに改革組合村総代人に対し、組合村を単位に酒造家による酒造組合を定め、総代を人選し、最寄知県事の命を受けて、過造隠造などの取り締りに従事するよう指示した(史料64)。酒税は府県、酒造組合の惣代が取り締りを行うことが明らかとなった。

同年十二月、民部省は酒税につき「国内一途ノ法則」を定めるとし、府藩県に対し一〇〇石につき十両の冥加金課税を示し、西国三八か国は大阪通商司、東国三五か国は東京通商司に納税するよう達した(史料65)。この時期、新政府による酒税の掌握範囲はそれまでの関東地方から全国的に拡大している。

日本の麦酒醸造は明治二年に、横浜の居留地でアメリカ人コプランドの手がけた醸造所が創始であるといわれている(『麒麟麦酒株式会社五十年史』)。本稿には明治元年十月における二件の麦酒醸造願を収録した(史料60・61)。麦酒発祥史については、いまだ未知な事柄がある事例である。麦酒の課税は、明治八年の酒類税則では免税(史料4)、明治十三年の酒造税則では免許税を納め、造石税は免税とした(史料7)。

麦酒税は明治三十四年に創設される。それ以前の麦酒については史料不足から全国的展開の把握が難しいが、に示す租税局による麦酒醸造草創期の全国調査はその意味で極めて貴重である(「官報」明治十九年二月二十三日)。

「醸造稼人心得書」(史料74)は酒税を執り行う福島県が明治四年から同七年にかけての酒税規則を取り纏め、刊行した酒造家向けの酒税解説書である。刊行に当たり福島県では「書中読(よみ)得難き熟字ハ里俗(とち)の語(ことば)を以て稀(まれ)ニ之レを解訳(ときわける)す」とし、明治六年四月創設の醔麹税(史料2)は(もとこうじ)と解き訳している。醔は(しゅう)と音読みするが、(もと)と読むことにより至極合点が行く。醔はまさに酒の(もと)を指す用字である。

明治四年七月の清濁酒醤油醸造株鑑札収与税則では、免許鑑札の更改は府県庁を介して大蔵省租税司が行い、前年の酒価平均をもって、売捌き代金の五分を醸造税として毎年十月に上納させるとし、同八年二月の酒類税則でも免許鑑札の更改は府県庁を介して大蔵省租税寮が行い、醸造税は租税寮に上納させるとしたが、醸造税の徴収については明確な規定を欠いていた。この欠落を補うのが「酒造御用記」(史料75)で、新潟県第十三大区小三区塩沢村の酒造総代青木佐吉による明治八酒造年度の用務日誌である。酒造総代の用務は酒造器械の検査、犯則者の取り締り、醸造税の徴収などが主で、大区内の酒造家を巡回しながら用務を遂行する様子が浮び上がる好史料といえる。

こうした酒造家による醸造税の徴収、酒造器械の検査、犯則者の取り締りなどは、明治十一年から十三年にかけての大蔵省租税局の設置、国税領収順序の成立、酒類税則改正、租税局出張所の設置など一連の改正により完全に払拭され、府県官による酒造検査、租税局員の監査、立ち合いが実施されることになった。府県の執り行う酒造検査の事例として東京府の酒類醸造石高検査心得(史料76)、自家用料酒類検査手続(史料77)を収録した。

明治十七年五月、大蔵省は収税長を任命し、府県に配属させて収税事務、酒造検査などを監督させるようになるが、府県では租税検査区、租税検査員派出所を設け、酒造検査の徹底を図った。ここでは、千葉県の例を収録した(史料78)。

明治二十三年十月、府県に設けられた間税署間税分署の酒税事務として、岩手県の間税署間税分署処務規程(史料79)、同県間税分署事務取扱手続(史料80)を収録した。明治二十六年十月、府県に設けられた収税署の酒税事務についても、岩手県の収税署事務取扱手続(史料81)を収録した。

酒造場が受ける間税職員などによる酒税の執行状況について、税務署創設直後の明治三十年十一月から同三十五年三月にかけての酒造場当主が克明に記した日記(史料85)を収録した。

酒類の蔵出課税は昭和十五年(一九四〇)の酒税法により導入されたが、それ以前明治三十六年に導入が試みられた(史料96)。しかし、同蔵出課税案は各地の酒造組合の大反対などにより導入は見送りとなった経緯がある(『酒造組合中央会沿革史』第一編)。

明治二十九年十月、国税組織として税務署が創設される。以降、酒税の執行については次のように検査簿にかかわる。

明治三十四年 帳簿書類検印廃止の件(史料86)
明治三十五年 酒類などの製造用検定簿備え付けの件(史料88)
明治三十五年 酒類製造検査簿紙数の件(史料91)
明治三十五年 間税検査監督及び犯則者処分法に関する封印用紙の件(史料92)
明治三十六年 酒造検査の際参考事項は手帳に記載の件(史料97)
明治三十七年 保管証雛形の件(史料104)
明治三十八年 検査・査定・検定簿を洋式に改正の件(史料107)
明治三十八年 封緘用紙護謨糊廃止の件(史料108)
明治四十年 酒造検査簿取り扱い方の件(史料111)
明治四十一年 査定簿携帯に関する件(史料112)
明治四十一年 営業者などの所持にかかる帳簿書類取り扱い方の件(史料113)
明治四十二年 検査簿、査定簿の標目に関する件(史料114)
〔明治四十四年〕 酒類製造検査簿中の用紙記載方の件(史料123)

酒造検査は細心の注意を払い厳格に励行されたが、日露戦争頃からはむしろ正当な業者には酒造検査を省略して、酒税の確保に資するような検査行政が執られるようになる。明治四十二酒造年度から、東京税務監督局管内では酒造検査及び承認の省略を実施に移した。この検査省略では不正業者の取り締り強化を目的としつつも、管内統一的な実施のため営業者の正否などの標準を示し(史料115)、その慎重な取り扱いを指示している(史料116)。

四 間接税職員の服制

幕末の不平等条約締結以来、長い間実施された治外法権は明治二十七年七月締結の日英改正条約により、日清戦争後の明治三十二年七月に発効し、廃止された。それまで開港場の居留地内にのみ居住が許されていた外国人は日本の法律の下、国内の居住が自由となった。内地雑居の開始であり、外国人にも日本の税法が適用されることになった。改正条約が発効する頃から、大蔵省は税務官吏に対し服務心得を強調し始める。発効直前には「税務官吏ハ人民ノ財産ニ対シテ職務ヲ行ヒ又犯則行為ノ検挙ヲ為スモノナレハ最モ清廉純潔ナラサルヘカラス」と訓示し、人民の財産に直接対処する税務官吏に清廉さを説き(史料124)、「素行ヲ修ムル」よう求めた(史料125)。特に開港場に所在する局署に対しては主税局長目賀田種太郎が、外国人に対する税務官吏の心得を示した(史料126)。

税務官吏の服装については、改正条約発効の明治三十二年七月、長崎税務管理局長がごく簡略に「衣服ニ関スル心得ノコト」と、税務署の対応を通信した条項が初見のようである(史料127)。横浜税務管理局は明治三十二年九月、外国人に対しいわば非礼がないようと服装規程を設け、「本局内ニ職ヲ奉スル税務官吏公務ヲ執行スルトキハ本規約ヲ遵守シ、必ス別表ノ被服ヲ着用スルモノトス」と定め、税務官吏服装表を示した(史料128)。これが一般の税務官吏に関する服装規程の最初であるが、いまだ間税官吏という区分は見受けられない。

しかし翌十月、主税局長目賀田種太郎の函館税務管理局長宛内達には、「間接国税ノ検査ニ従事スル官吏ノ服制」が閣議に提出中とある(史料129)。ここには横浜税務管理局管内にのみ通用の非礼がないための服装から、全局の間税官吏制服へという転換が認められる。明治三十三年一月、間接国税の検査に従事する官吏の服制を布告、同年二月一日から施行した(史料132)。同時に服装心得(史料133)、礼式心得(史料135)も定めた。

明治三十三年四月、被服補給規程を設け、九級俸以下の間税官吏に対しては、被服費として一定の金額が支給されるようになった(史料140)。

明治三十三年四月の間税事務講習に際し主税局長目賀田種太郎の演説には、同年三月成立の間接国税犯則者処分法を受けて、次のように、非礼がない服装から間税官吏制服への転換真意が述べられている。

制服ニ付テモ一言ヲ要スルモノアリ、此ノ服制ノ実施ニ付テハ多年間各管理局長ト共ニ予ノ希望セル所ナリシガ、只其ノ施行ノ困難ナルヨリシテ不得止躊躇セシ次第ナルモ、今ヤ已ニ其ノ期熟シ遂ニ今回実施セラルヽコトヽナレリ、此ノ制服ニ付テモ各員ハ少シク間税検査ナル職務ノ何タルヤヲ玩味シ考究スヘキモノアリ、何トナレハ間税ノ事務ハ直税ト異ナリ、専ラ事実ノ発生ニ基キテ税ヲ課スルモノナルカ故ニ庁外ニ於テ執務スルコト其ノ多キニ居リ、加之間税ノ検査ナルモノハ能ク其ノ系統脈絡ヲ糺ストキハ査定以外ニ所謂間税ノ監視ヲモ含メルモノニシテ、即査定ハ単ニ課税物件ノ数量ヲ確定シ、監視ハ其ノ数量ヲ定ムルト同時ニ課税物件ノ脱逸ヲ監視スルニ在リ、而シテ這般間税官吏ノ服制ヲ定メラルヽニ当リ、大蔵大臣ガ閣議ヲ請ハレタル要領ノ一ハ已ニ内地雑居ニモ至リタル今日ニ当リ間税ノ監視即間税警察ノ職務執行上世人一般ニ対シテ其官吏タル品位ヲ保タシメンカ為メ、一ハ又庁外ニ於ケル執務ノ便ヲ与ヘンカ為メニ服制々定ノ必要アリト云フニアリ(史料141)

すなわち、間接国税犯則者処分法が求めるところの、間税官吏による間税警察の職務執行上、世人一般に対し間税官吏の品位保持、執務の便宜付与が第一の制服導入理由であった。

間税官吏の服制についてはその後、追加、改正、補足などが次のように実施された。

明治三十三年 間税官吏法廷内は脱帽の件(史料142)
明治三十四年 間接国税検査官吏服制中改正の件(史料146)
明治三十四年 営業者の倉庫及び製造場における間税官吏制帽着用の件(史料147)
明治三十六年 間税検査官吏の製造場等に臨むときは制帽、外套着用の件(史料148)
明治三十六年 旧式により調製した制服は着用に堪える迄継続着用妨げなき件(史料150)
明治三十六年 転勤職員の被服補給金転勤先へ引き継ぎの件(史料151)
明治三十九年 間税官吏の服装は制式に違わざるよう注意の件(史料152)
明治四十二年 収税官吏の服装は端正厳粛の件(史料154)

なお間税官吏言語の用例及その他心得の件(史料153)は、主に間税官吏の職務執行上注意しなければならない言語の用例集であるが、これから間税官吏とはもっぱら酒造を執行する税務属を指すことが明白である。

五 酒造・鑑定・醸造試験所・酒造組合と酒類行政

第二次世界大戦後に清酒の機械生産が定着するまで、清酒醸造は江戸時代中期に灘地方で確立した三段仕込による寒造りが国内の太宗であった(柚木学『酒造りの歴史』)。しかし清酒の造り方は醸造に従事する杜氏の秘伝であり、外部の一般人が知るには大きな壁が存在した。その点、明治一〇年代における伊丹・西ノ宮の日本酒醸造法(史料157)は、極めて貴重な史料といえる。この調査書は明治十四年に成立した農商務省の作成である。作成の背景には酒造業の改良があったと考える。

明治三十二年二月、税務管理局官制を改正し、税務管理局に「技手」を置き、「上官ノ指揮ヲ承ケ酒類ノ鑑定其ノ他技術ニ関スル事務ニ従事ス」(勅令第三十三号)と定めた。同年三月、「酒類ノ鑑定事務ヲ練習セシムル為、税務管理局ニ見習員ヲ置クコトヲ得」とし、税務管理局見習員制度を定めた(勅令第五十五号)。見習員制度は、「今ヤ各種ノ税法整理ノ際ニ当リ、税務執行上益々技手ノ必要ヲ感シ之カ養成ヲ行フ」(史料159)と、酒類鑑定の技手養成を趣旨としたのである。また大蔵省は税務管理局に対し、修得すべき酒類知識や技術の程度を示し(史料161)、札幌税務監督局では技術講習規程を設け、見習員、税務属の講習科目を指定した(史料174)。

技手の設置に伴い税務管理局には鑑定部鑑定課を設け、技手は鑑定課に属し、鑑定事務取扱手続(史料160)に沿った厳格な鑑定事務に従事するようになる。なお技手は鑑定官と呼ばれることが多い。

明治三十五年十月、税務監督局官制の制定、同年十一月、税務署官制の制定により、税務署に技手を置き、技手は署長の指揮を受けて技術に関する事務に従事することになり(史料56)、税務署に鑑定課を設けた。しかし、鑑定課を置く税務署は税務監督局管内でも限られていた(史料163、171)。税務署の鑑定事務取扱規程(史料165)、税務監督局の税務署鑑定事務取扱手続を収録した(史料164)。

酒造組合に関する法令は明治三十一年十二月、酒造税法を改正し、附則に第四十条を追加して「酒類ヲ製造スル者ハ府県若クハ税務署管内ヲ一区域トシテ酒造組合ヲ設クルヘシ、組合ニ関スル規定ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム」としたのが端緒である。酒造組合と税務署との関連は酒造家の酒造税納付を確実ならしめることにあった(『明治大正財政史』第七巻)。翌明治三十二年七月、酒造組合の規定として酒造組合規則を制定、「酒造組合ハ組合員協同一致シテ営業上ノ弊害ヲ矯正シ信用ヲ保持スル」と、目的を定めた(史料158)。酒造組合は府県の管轄であるが、組合活動は酒税とのかかわりが深いことから税務署や税務管理局、税務監督局の酒類行政を受けることになった。

明治三十六年五月、「酒造業ノ改良発達ヲ企図スル為メ」として、四国酒造組合聯合会が設立された。発起人会から聯合会設立まで一連の関係史料を収録した(史料167〜170)。

酒造業の改良発達を企図する理由として、「特ニ一言スベキハ税源涵養ノコトナリ、一般ノ産業衰ヘ税源枯渇スルトキハ決シテ完全ナル徴税ノ目的ヲ達スヘカラス、税源涵養ノコトハ税務上深ク留意セサルベカラサルトコロタリ、今回本局主唱誘導シテ四国酒造組合聯合会ヲ組織セシムルニ至リタルモノ、全ク当業者ノ知見ヲ進メ業務上ノ改良刷新ヲ促シ税源涵養ノ目的ヲ達セムトスルニ外ナラス」(史料173)と、税源の涵養が指摘されていた。杜氏の「カン」を重視する伝統的な清酒造りは腐造の多発を呼び、造酒量の減少となり、それと日清戦争後から日露戦争にかけて酒税の相次ぐ増徴と相俟って、造酒量を課税標準とする酒税の減少が懸念された。当時、これを税源の枯渇といった。税源の枯渇を防止するため酒造の改良を図る酒類行政は、税源の涵養に結び付く。しかし酒造組合に所属する酒造家は酒蔵の経営者であって、実際上酒造に携わるのは杜氏である。造酒の改良発達の鍵は杜氏が握っている訳で、酒造組合では局署の技手を招いて杜氏のための酒造改良講習会などを開催するようになる(史料172)。そしてこの頃から、鑑定事務に従事する技手が新技術の紹介、指導、酒の鑑評などの酒類行政に携わるようになる。

明治三十七年十二月、酒造組合法(史料181)、及び酒造組合法施行規則(史料182)が制定された。従来の酒造組合規則と異なる点は、1組合設立を強制的から任意とし、2酒造組合設置の場合に区域内の酒造業者は当然組合員となり、3酒造組合聯合会が設置でき、4酒造組合並に酒造組合聯合会は法人とする、などであった(『明治大正財政史』第七巻)。

醸造試験所は酒類醸造の「学理を応用して技術の改良進歩を企図」し、明治三十四年七月、農商務大臣の下に調査を開始した。翌明治三十五年から二か年の継続事業で、東京府北豊島郡滝野川村(東京都北区滝野川)の地に、酒類製造施設など庁舎を建設、完成が迫った明治三十六年十月、酒類醸造に関する試験研究が大蔵省の主管する酒税事務と密接に関連するところから、醸造試験所は大蔵省の所管することが決定した(『醸造試験所七十年史』)。明治三十七年五月、醸造試験所官制を制定、醸造試験所は大蔵大臣の管理に属し、酒類醸造の試験及び講習に関する事務を管掌すると定めた(史料177)。

醸造試験所の講習は「営業家ノ子弟ニシテ講習ヲ終ルヤ直ニ著実ナル営業家トシテ其利益ヲ増進セムトスルモノニ限ル」とし、講習者を酒類営業者の子弟に限った(史料183)。講習初年度の東京及び鹿児島各税務監督局の講習生募集広告を収録した(史料178・179)。

明治四十二年、醸造試験所では酒造に関し山廃、速醸という新しい技術を相次いで開発した。山廃は労働力を長時間投下し蒸米・麹・冷水を平均的に混ぜ合わせる「山卸し」という酛造り作業を廃止して、酒造経費の縮減を図る技術で、山卸しを廃止するから山廃と呼称する(大竹一貫「酒母製造初期に於ける半切操作を全廃すへし」(『醸造協会雑誌』第四年第十二号)など)。速醸は乳酸と純粋培養の酵母を添加し発酵を速め、乳酸の力を借りて雑菌の発生を抑えながら安全に醪を造る技術で、速く醸造できるから速醸と呼ぶ。山廃と速醸を兼ね合わせると、仕込みは従来の四分の一ほども短縮できた(江田鎌治郎「日本酒製造上乳酸菌又は乳酸応用の価値」(『醸造協会雑誌』第四巻第六号)など)。

明治末期からこうした新技術を民間に紹介し、酒造改良の手立てとする施策が講じられるようになった(史料185・186)。醸造試験所でも技術官の派遣手続を定め(史料187)、酒造組合なども講習会を通して新技術の普及を図るようになった(史料188)。

おわりに

税務情報センター租税史料室では江戸時代の酒税史料も所蔵はしているが、野中準等修『大日本租税志』(大蔵省 一八八二年)、あるいは夏目文雄『日本酒税法史』(上)(創土社 二〇〇〇年)に載る酒税史料に新たな観点を導入できる史料は皆無であるから、収録は割愛した。

またできるだけ当租税史料室が所蔵する史料を収録するように勉めたが、酒税法に関しては総て『法令全書』に依拠した。

当租税史料室には税務署からの行政文書に加え、一般納税者からも租税史料の提供を受けて、多数を所蔵している。行政文書と納税者による提供史料が一体となって始めて租税の執行が明らかにできるという趣旨から、昭和四十三年に開室以来、租税史料の提供を募ってきた。今回もそうした提供史料の中から、「酒造御用記」(史料75)「酒造場日記」(抄)(史料85)などの貴重な酒税史料を収録することができた。同史料も含め本巻収録の酒税史料が大いに活用され、租税史の研究が深まることを願ってやまない。

なお、次巻は大正期から昭和戦前期かけての酒税史料と、明治から昭和終戦直後にかけての酒類税率や酒税執行機関などの沿革概要、同期間の府県別酒類統計などの収録を予定している。

(鈴木芳行)

              

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