佐々木 幸男

税務大学校
研究部教授


要約

1 研究の目的

 わが国の所得税は、包括的所得税論に拠っているとされながらも、シャウプ税制以後半世紀を超える時の流れの中でその姿を変えつつ現在に至っている。その間、包括的所得税論に対し様々な疑問や批判が投げかけられて久しいが、このような中で、現在「あるべき税制」の構築に向けた検討や取り組みが行われており、その一環として、所得税についても税制調査会基礎問題小委員会から「個人所得課税に関する論点整理」などが出されている。
こうした状況を踏まえ、本研究では、シャウプ税制後の制度の変容の過程を検証し、包括的所得税論を含めた課税理論の検討を行うとともに、最近の所得税の改正や所得税をとりまく状況を題材として取り上げ、主として負担の公平の観点から、今後の所得税のあり方を考える上での基本的な課題について検討を行う。

2 研究の内容

(1) 課税理論変更の可能性
わが国の所得税は、包括的所得税論に拠ると言われながらも、現実にはシャウプ勧告に基づく税制改革においてすら完全なものとはなっていなかった。その後幾多の改正を経て、現在ではむしろ理念的な包括的所得税とはかけ離れた姿となっているとさえ言われている。これは、包括的所得税に内在する執行の困難性などが要因となっているほか、長年にわたる各種の政策的要請や租税回避誘引の抑制などへの対応の結果でもあった。
このような所得税の現状を踏まえ、包括的所得税の問題点やこれに対する批判から生まれたいくつかの課税理論(支出税論、最適課税論及び二元的所得税論)の導入の可能性について見てみると、包括的所得税を含めたこれらの課税理論にはそれぞれに長所と短所が内在しており、いずれかを採用しようとすれば、結局は何を犠牲にし、何を得るかという取捨選択の問題に突き当たり、一つの税の一つの課税理論の選択だけですべての問題が解決するわけではないことが再認識される。新たな課税理論のうち支出税論及び最適課税論については、まだまだ検討・検証すべき課題が多く、直ちに採用し得る状況にはないと考えられる。また、現実的と評価される北欧の二元的所得税も、むしろそれを採用せざるを得ない状況に陥らないように現状把握と対応を行うことが必要であると考えられる。そして、これらの課税理論の対立やそれぞれが抱える問題の背景には、多かれ少なかれ「負担の公平」と「課税の中立」の相克という問題が存在している。

(2) 金融所得課税の一体化に当たっての留意点
税制調査会から示された金融所得の定率分離課税への一体化の方向は、「貯蓄から投資へ」という政策要請に応える観点や租税回避の抑制等による実質的公平の確保などの観点から評価できる。しかし、一方では、金融資産所得などの資産所得は、不労所得と言われ、それを生み出す資産そのものの経済力とその富裕層への集中とが重なることから一般に強い担税力を有するものとして認識されてきており、これが「資産所得重課、勤労所得軽課」という考えの根拠になっている。金融所得課税の一体化はこのような伝統的な担税力理論と相容れないほか、垂直的公平の観点からも批判を受ける。そして、こうした認識に基づく公平感は国民の中に今なお強く存在していると考えられる。
このような状況の下で金融所得課税の一体化を進めるに当たっては、一体化による政策効果や垂直的公平の阻害と実質的公平の確保の状況のバランスを見極めつつ、その範囲や税率等を慎重に検討していく必要がある。その際、実質的公平の確保を図る観点から、金融所得の把握体制の整備や資産課税の充実に努めるとともに、国際的な調和にも配慮する必要がある。

(3) 税源移譲と所得税の機能等の変化への対応
所得税(国)から個人住民税(地方)への税源移譲は、個人所得課税全体の税収不変と個々の納税者の負担不変という原則の下で、それぞれの税率構造を変更することにより行われた。この税源移譲の結果、従来から問題視されてきた所得税の財源調達機能が更に低下する一方で、それまで個人住民税と分かち合う格好となっていた税負担の垂直的公平の確保や所得再分配機能のかなりの部分が所得税に集約されることとなった。また、税源移譲後の所得税率の累進構造は、低所得階層に極端に薄く、不規則で、所得税制として理論的に説明しにくいものとなっているほか、国民の生活と感情に密接に関わる税であるがゆえに求められる様々な政策的要請に応じる基礎体力(厚み)も中・低所得層を中心に低下することになった。
こうした状況を踏まえると、所得税の累進税率構造のあり方については、所得税制として自律的な説明がつくよう、また、所得税の持つ財源調達機能や所得再分配機能(垂直的公平の確保)をより適切に働かせるとともに、政策的対応力を強化するという観点から、新たな政策手法の検討と併せ、もう一段の検討・整備を行う必要があると考えられる。

(4) 消費税率引上げへの対応
最近、財政再建や社会保障費の財源を消費税率の引き上げで賄うということが一種の了解事項のようになってきている。消費税は、課税ベースが広く、消費に応じて負担をし、仕組みも簡素であることなどから安定的・基幹的な財源として高い価値を有しており、欠くべからざる存在ではあるが、反面、「所得」に対する逆進性があるため垂直的公平を阻害するとの指摘がある。仮に、消費税の税率が広い課税ベースと単一税率構造を維持したまま大幅に引上げられることになれば、この問題は更に拡大する。
この逆進性拡大の問題への税制上の対応の一つとして、所得税の課税ベースの拡大や上記(3)の累進税率構造の見直しにより所得税収のウェイトを高めることが考えられる。適切な累進構造を持つ所得税の税収が増えれば、その分消費税率の引上げ幅を抑えることができ、両者相俟って税制全体として逆進性の拡大を抑制することができる。また、所得税が厚みを増すことにより、激変緩和等の政策的な負担調整の選択肢が広がることにもなる。

(5) 経済格差の拡大への対応
近年、わが国のジニ係数は大幅に上昇しており、格差社会の到来が問題視されている。一方で、このような所得格差の拡大の大部分は高齢化や世帯構造の変化などの「みせかけの要因」によるものであることが専門家の分析によって明らかにされている。こうしたみせかけの要因による格差の拡大は、経済システムの変化(質的変化)によるものではないため政策上はさほど大きな問題とはならないと見ることもできる。しかし、現に老齢・単身等の所得格差の大きな世帯グループのウェイトが増大し(量的変化)、加えて、専門家の分析により若・中年層を中心とした世代内(所得・資産)格差の拡大傾向が指摘されていることなどを考えると、現に進行している格差拡大の兆しを過少評価することはできない。
所得再分配に対する寄与度は、租税全体としてはさほど大きくないものの、累進構造を持つ所得税や資産課税はそれ自体再分配効果が高く、不平等の是正のために相応の役割を担える能力を有している。格差の是正(所得・資産の再分配)の観点からも所得税等の累進構造や課税ベースの適正化(是正・拡充)は重要であり、今まさに、国民に負担を求めていく中で十分考慮されなければならない要素であると考える

3 結論

 以上見てきたように、所得税の課税理論の変更は直ちに行う状況にはないと考えられる。こうした中で金融所得課税の一本化、税源移譲による税率構造の変更、消費税率の引上げ、格差社会の到来等の諸問題への対応を考えると、やはり重要なのは所得税が有してきたとされる財源調達機能と所得再分配機能(垂直的公平の確保)の必要性を再確認することである。
タックス・ミックスの税体系の中でこれらを適切に発揮させることは、税制全体として国民の負担の公平への信頼を維持し、高める上で欠くことのできない課題といえるのではなかろうか。

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