中村 弘

税務大学校
研究部教育官


要約

1 問題意識

 国税職員に対しては、これまで租税法に関する解釈論や調査手法などの技術論を中心として人材育成が図られてきた。しかしながら、そのような解釈論や技術論に入る以前に、租税の意義・根拠・歴史といった租税の入口論を修める必要があるのではなかろうか。
このような問題意識の下、税務教育の現場や、ひいては納税者に対する租税教育の際に使える説得的な教育資材とすることを視野に入れて、それらを「租税の基礎理論」としてまとめることとした。

2 研究の概要

(1) 租税を納めるということ(租税の意義・根拠)
政府が果たすべき最も重要な役割について、政府の経済理論である公共経済学では、市場の欠陥ともいえる失敗に対する補完、つまり市場(商売)としては成り立たないが、社会にとって必要不可欠なサービス(公共サービス)を国民に提供することにあるとされてきた。昨今、この政府が果たすべき役割に関して、「小さな政府」といったキーワードを軸に議論が行われているが、わが国においては総じて「小さな政府」が志向される状況にあるといえよう。しかしながら、この点に関しては、単に数値指標の大小をもって政府を評価するということではなく、政府が担うべき公機能の中身についての精査こそが必要というべきではなかろうか。市場原理や経済効率性のみが一人歩きするような社会では、自らの生活の安定や安全は確保できないということを国民は実感しつつある。一方で、政府に対しては、ひたすら規模の縮小ということのみが叫ばれている。国民福利を確保するためには、市場ルールの整備や監視などをはじめとして、むしろ政府の機能が強靭に発揮されることが求められているのではなかろうか。
さて、政府がその役割を果たすための資金とされる租税については、かつてより利益説と義務説の二つの流れを中心としてその根拠が論じられてきたものの、いずれも定説となるには至っていない。これら二説をはじめ租税の根拠をめぐる諸説について概観してみると、次のとおりである。利益説は、社会契約説的な国家観を背景として、租税は国民が国家から受ける利益の対価とみる考え方である。しかしながら、国家と国民の関係について私的経済関係を前提として捉えている点で問題があり、政府の支出が国民の利益にならないものであれば租税を払う必要はないというような危険な考え方を内包しているものともいえる。ただし、政府による公共サービスの供給と国民の納税とが個人のレベルでは対価関係にないが、基礎的財政収支の均衡のように国家全体としてバランスがとれた状態が望ましいという観点からみれば、マクロ的には利益説にも肯ける側面はうかがえる。それに対して義務説は、国家は個人の意思をこえた必然であり、個人は国家なくして存在しえないとする権威的国家観と結びついて、国家は当然に課税権を有し、国民は当然に納税義務を負うものとする考え方である。日本国憲法第30条の納税の義務なども引き合いに出され説かれるが、国家の権力的側面を強調しすぎるあまり、民主主義国家においては説得的とはいい難い。ましてや、アリストテレスの理想国家のように、納税が義務ではあるが有徳の行為であるとして国民が喜んで税金を払うような国家は、少なくとも現時点では存在する筈もない。このようななか、近時においては両者を止揚する形で、国家は国民の自律的団体であり、その維持や活動に必要な費用は国民が共同の費用として自ら負担すべきものとして、民主主義的租税観により租税の根拠を示す考え方が有力とされてきた。このような考え方は大島訴訟判決でも示されており、租税が社会共通の費用を賄うための会費であるとの解釈を示したものともいえる。また、これらの他にも、国家を国民の生命・財産を保護する保険者に例え、租税をその保険料であるとする考え方や、国家と国民を互酬的関係として位置づけ、租税を社会的交換として捉えようとする考え方などもみられる。
これら租税の根拠に関する考え方については、いずれか一つに偏することによって説得的な結論が得られるというものではないであろう。しかしながら、現在のわが国が国民主権の民主主義国家であるという観点を重視したうえで、敢えて次のような考え方を提示しておくこととしたい。国家の活動はすべて国民福利の確保のためにあるといえる。しかしながら、国民主権の下においては、国民がその需要客体であると同時に供給主体でもあり、国家と国民は相対立する存在ではない。したがって、租税は、自らの国民福利を確保するために、主権者である国民が自らに課した「社会的責任」であり、決して権威的な国家から無理やり負わされたものではない。なお、租税に強制性が伴うのは、国民自身が等しく正直で勤勉で正義感と慈悲心を有しているとはいえないという現実に由来するものといえよう。また、国民が受ける福利は、国民各自の個人的選好によって決められるものではなく、民主主義国家においては民主的手続きを経て社会全体の選好として収斂されるべきもの、すなわち国家が与える福利は基本的に個人宛のサービスではなく社会全体の安定と安全であることから、個人の選好が充足されないからといって租税を免れることは許されることではない。しかしながら、政府の行動が国民の福利に反するものであれば、当然のことながら租税への反発が生じることとなる。主権者としての責任を国民が納得できるような政府の存在こそが、納得できる納税の大前提ということではなかろうか。

(2) シャウプ勧告以来60年の歩みを顧みる(租税の歴史)
租税を考えるにあたって、その歴史から示唆を得るべく、さしあたり、わが国税制の基礎を形づくったとされるシャウプ勧告から現在に至るまでの60年の歩みを中心に顧みることとした。昨今、消費税をはじめとして増税論議が盛んになりつつあるが、過去においても増税にあたっては相当な苦労の跡がうかがえる。高度成長期以降において所得税減税を中心とした減税路線がとられるなか、昭和63年の税制の抜本改革では、売上税の失敗を経た後にようやく消費税の導入にこぎつけた。また、平成6年の消費税率の引上げにおける同様の混乱などをみても、納税ましてや増税への理解を得ることが容易ではなかったことがうかがえる。一般的にわが国における増税は、湾岸増税の場合を除いて常に減税と組み合わされ、レベニュー・ニュートラル、ネット減税、先行減税といった手法によりその痛みを緩和することで国民の理解を促してきた。しかしながら、現在の財政状況に鑑みればそのような手法にも限界がうかがえ、今後において国民の理解を得るにあたっては、租税の仕組みや財政の窮状を説くことは勿論であろうが、政府に対する信頼を獲得すべく、その施策の確かさと執行の公正さというものを示していくことが必要であるといえよう。

(3) これからの租税を考える(例えば、公共サービスの担い手の拡大と租税)
小さな政府が唱えられる一方、なかなか行政依存体質を脱しきれないでいるというのが現状ではなかろうか。そもそも公共サービスは政府だけが担うものではない、つまりパブリック(公)とガバメント(官)はイコールの関係ではないといえる。近年、国民の社会貢献意識の醸成とともに、公共サービスの担い手についてNPOなどへの拡大が進んでいる。個人の多様な価値観を尊重し、かつ公共サービスの担い手の拡大に資するという観点から、公益のための拠出である租税と寄付について、相互の性格を踏まえた検討が必要であると考える。

3 結論

 「この国に生まれて良かった」と答える国民の比率が一番高い国はスウェーデンとのことであるが、租税負担率が一番高いレベルにあるのもその国である。租税が取られるものではなく、納得して納めるものとして意識醸成されるには、何よりも政府の適切な施策と公正な執行が求められる。一方、国家と国民を自同的な存在として捉えれば、脱税はおろか租税回避でさえ、自らの首を自らが絞めるような行為ともいえよう。また、それだけでなく、租税を免れるということは、国民全体に及ぼす負の外部性として、社会的責任という租税の理念にもとる、まさに国民の失敗と呼ぶべきものともいえよう。今日の社会経済におけるコンプライアンスのあり方をみると、単なる法令遵守にとどまらず、社会貢献や顧客満足といった一段高い領域まで求められている。しかしながら、租税の世界に目を転じてみると、租税法規には違反してないということを前面にして、その間隙をついた租税回避が堂々と行われているという有様である。このように、わが国においては、「納税」という行為の社会的ポジションが決して高いものとはいえない。また、このことは将来的な国家と国民の関わり方としてもサステイナブルな姿とはいい難い。このような憂慮すべき事態に対しては、現在、法制度的な側面から租税回避を抑止するための諸規定をはじめとして、サンクション体系のあり方などについても検討が行われているところである。しかしながら、それらの作業と相まって、租税に対する高い納税者意識を涵養するような租税教育といった取り組みを実践していくことが重要といえるのではなかろうか。

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