加藤 恒二

税務大学校
研究部教授


要約

はじめに

 現在ほとんどの国税について採用されている申告納税制度は納税者のコンプライアンスによって支えられている。本稿は、申告納税制度の執行の場面で散見される納税者の義務不履行ないし違反という状況に対する問題意識を出発点として、納税者のコンプライアンス向上の観点から、納税者の義務の履行を確保するための方策について、制裁等の側面から考察するものである。

第1章 申告納税制度

 申告納税方式による税額確定手続きでは納税者の申告に税額を確定する法的効果が与えられるところから自己賦課(self - assessment)とも呼ばれる。これは国民が課税庁に付与した責務の一端を主権者たる国民自らも負担するという意味で、国民の納税義務が支配に対する服従ではなく自治における責任を意味していると考えられること、そして国民すべてが納税の分野で負うべき責務が市民的自覚に根ざした主体的かつ能動的なものであることを示している。申告納税制度は納税者のコンプライアンスによって支えられるべきものと考える。
申告納税制度は、記帳・記録保存義務と税務調査における受忍義務(説明義務)が申告納税義務と不可分の義務として一体をなす義務の体系と考えられるのであるが、課税処分を争う訴訟における認定事実を分析すると、納税者がこれらの義務を適正に履行していない事実が認定されているケースも見られる。
そのようなケースでは、課税処分が維持され、納税者の義務不履行ないし違反に対しては過少申告について加算税が課されてはいるものの、記帳・記録保存義務や調査における説明義務の不履行ないし違反に対してはなんの制裁も科されていないという状況もある。

第2章 現行の制裁等

 行政上の制裁の定義について、本稿は、「義務不履行の責任を問いあるいは違法行為に対する懲らしめを直接の目的として罰その他の不利益を与え、その存在による一般予防効果あるいは特別予防効果を期待する制度」といった理解に従う。
申告納税制度に関する制裁としては、行政刑罰、加算税及び通告処分が規定されている。
行政刑罰は、納税者のコンプライアンス向上の観点からは最も強力な制裁の手段であり、あわせて間接強制の手段として納税秩序を維持する役割を負っている。
過少(無)申告加算税や重加算税は、私法における損害賠償の予定に類する性格を有し、民事罰の概念のもとに統一され、その情状に応じて正しい申告をしている納税者とそうでない納税者との負担のバランスをとり、申告納税制度の実効性を確保するための行政上の措置として整備され、納税者のコンプライアンス向上という観点からは、その存在により適正な申告義務の履行を非刑罰的な方法で確保する役割を果たしている。
通告処分は、行政手続きと刑事手続きが接木されたユニークな制度といわれており、証拠の収集と価値判断に特別の知識経験が欠かせないという限定的な守備範囲で実際面での必要から設けられている。犯則の態様によっては犯則者に敢えて前科を付する必要はないという考え方からは合目的的かつ合理的な制度と考えられる。
我が国の申告納税制度では、以上のような制裁規定が設けられている一方で所得税と法人税に青色申告制度という租税特典を付与する制度が設けられている。この制度は記帳へのインセンティブを与える仕組みとしてこれまで大きな役割を果してきた。青色申告制度は創設から既に50余年を経過し、昭和59年には白色申告についても記帳・記録保存義務が規定された。しかし、現在、所得税や法人税の記帳・記録保存制度は、全体としてなお過渡的な段階にある制度であることにかわりはない。

第3章 制裁の希薄域

 申告納税制度という義務の体系の三つの領域(記帳・記録保存、申告、税務調査)における義務不履行ないし違反に対する現行の制裁等の諸制度を対応させてみると、制裁の希薄域とでも言うべき領域の存在が明らかになる。
記帳・記録保存義務の領域では、その義務不履行ないし違反に対してはなんの制裁もない。青色申告では青色申告の承認の取消しがあり、白色申告では推計課税があり、消費税では課税仕入れの否認が行われることがある。しかし、これらは義務不履行の責任を問い、違法な行為の懲らしめを直接の目的とするものではないから制裁とは言えない。我が国の消費税以外の間接諸税のほとんどに記帳・記録保存義務とその不履行ないし違反に対する罰則が設けられ、アメリカやドイツ等の制度もなんらかの制裁規定をもっていることと比較すると、この領域は制裁の希薄域ともいうべき特異な領域になっている。
申告の領域では、罰則や加算税といった制裁が規定され、罰金の額や法人処罰の在り方等について論点はあるものの、制裁の希薄域というべき状況にはない。
税務調査(強制調査を除く。)の領域では、納税者の説明義務不履行ないし違反に対して各税法に罰則が規定されているが、刑罰の謙抑性と可罰的違法性の論理から罰則が科される範囲は限定的であり、それに至らないほとんどのケースでは、納税者の説明義務不履行ないし違反に対して罰則が適用されることはない。この領域は実態として制裁の希薄域となっている。
このような制裁の希薄域では、納税者については義務に対する無視や軽視の傾向を引き起こし、課税庁については制裁の手段がないために放置せざるを得ないという状況を生じさせる。このことは、納税者のコンプライアンス向上の観点から重大な問題と考える。
現実には、納税者と接する課税庁の担当者による説得が行われているが、これにはおのずと限界がある。説得に努めることは必要であるが、課税庁が的確にその責務を果たしていくためにも、やはり制裁の希薄域に対応する適切な法的仕組みを講ずる必要があろう。

第4章 制裁の希薄域への対応

 制裁の希薄域への対応については、前提として記帳・記録保存義務の整備が必要と思われる。記帳の普及を目的とした現行の過渡的な仕組みがその義務不履行ないし違反に対する対応を曖昧にしている。1半世紀以上にわたる普及期間を経て記帳の必要性は大部分の納税者に理解されていると思われること、2ここ十年余の電子機器の発達は記帳、記録の手数とコストの大幅削減を実現するとともに特別な記帳知識を不要としていること、3記帳の指導、支援体制は税理士制度及び民間団体の活動により十分なレベルにあると考えられること等を踏まえるならば、過渡的な仕組みから本来の仕組みに移行していくべき時期にあると思われる。
記帳・記録保存義務の分野における制裁の希薄域への対応としては、この義務が実額所得による課税を前提としていることから、推計課税をせざるを得ないような記帳に対して加算税方式での不利益を与える方法が、現行の制度との整合性や賦課要件の客観性等の点で現実的と考える。ただし、この義務の不履行や違反は懈怠の要素も含むことを考慮すると、その割合は、重加算税よりも低く設定することが妥当であろう。この制裁には改善指導を組み合わせることが望ましい。
調査における納税者の説明義務への対応としては、罰則の適用に到る前の段階に義務の履行を強制する行政上の法的仕組みを置くことが必要と考える。アメリカの制度もドイツの制度も納税者の義務の履行を強制することに主眼を置いた制度になっており、その手法は他の行政分野でも用いられている。我が国にはかつてプロイセンの制度を採用したとされる執行罰としての過料の制度があった。砂防法にその痕跡が残るのみであるが、他の行政分野では、行政の実効性を確保する制度としてその現代的再構成が提唱されている。この分野は、行政強制の論理の再検討、行政機関と司法機関との関係、実効性確保と人権保障の関係、行政効率と手続きの関係、それらを実現する組織の整備等、検討すべき課題が多い分野であり、本稿では検討の素材として提示するに止まるものであるが、申告納税制度を支える納税者のコンプライアンスの維持・向上の観点からは、この制裁の希薄域に対する有効な手法となる可能性があり、更に研究を進めていくことが必要と考える。

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