牛米 努

税務大学校
租税史料館研究調査員


要約

 小稿は、明治29年の税務署創設までの国税徴収機構の形成過程を、松方家文書などを使用して解明することを目的とした。論文の構成は以下のとおりである。


はじめに

一、三新法体制下の国税徴収システム

(1)郡区町村編制法と租税局出張所
(2)府県国税徴収費の成立
(3)主税官・収税専務官構想の実現
(4)不納者処分の強化

二、市制・町村制下の国税徴収システム

(1)明治19年官制改正と徴収機構
(2)市制・町村制と国税徴収
(3)地方間税局構想と直税署・間税署
(4)直税・間税論と機構改革

おわりにかえて


 明治11年の三新法の公布により、地方制度は府県・郡区・町村となり、国税徴収は府県の職掌となった。知事の委任を受けて実際に徴収にあたるのは郡区長で、不納者の公売処分も郡区長に委任された。町村(戸長)は、税金を取りまとめて郡区長に上納する役割となった。三新法に対応する国税徴収機構は、収税委員派出所が収納事務の監督と国税金の領収、租税局出張所が諸税検査を担当した。東京・大阪・名古屋の租税局出張所は、近隣府県の収税委員派出所の事務を兼併したが、明治14年の収税委員派出所の廃止により租税局出張所に一元化された。しかし租税局出張所の事務は、あくまでも府県(郡区)の徴収事務の監督という間接的なものであった。
三新法による国税徴収システムは、地租などの直接税には適合的であったが、酒税などの間接税には適合的ではなかった。そのため租税局は酒造検査費を府県に配賦して酒造検査の強化を図ったが、明治14年度から三か年間の予算据え置きとなったため、府県国税徴収費を独立させて徴税費を確保した。府県国税徴収費の独立は、郡区役所の一般事務から府県の収税事務を分離させ、国税担当課が設置された。このような府県収税事務の分離が、明治17年の主税官(主税局)および収税専務官(収税長・収税属)構想の基礎となり、租税局出張所は廃止されて府県収税課に引き継がれた。収税長・収税属の設置には府県国税徴収費が新たに配賦され、収税長や収税属への主税局吏員の転任などで人的交流も図られた。主税局と府県収税課は、府県国税徴収費の配賦や人的な面で繋がりを強め、主税局の府県税務監督により収税の統一化が図られた。
明治18年に府県の検税部門が強化され、同21年に全国の租税検査員派出所体制が確立した。主税局は酒税検査を中心とする検査部門の直轄化を構想し、明治21年にも地方間税局の設置が構想された。
明治21年の市制・町村制と国税徴収法により、地租と所得税や営業税・鑑札税などの国税の徴収は市町村に委託された。府県収税部は、郡市に府県収税部出張所を設置し、これに租税検査員派出所を併置した。この収税と検税の二系統の収税部事務は、明治23年の間接国税犯則者処分法により直税(分)署・間税(分)署へと改編される。しかし間接国税犯則者処分法には間接国税の規定はなく、当時は検査が必要な税目が間接税とされていたのである。しかし市制・町村制や衆議院議員選挙法などに、直接国税の納税額が公民権の要件と規定されたことにより、直間税区分の議論が起こった。この直間税論は租税論や税制論に発展し、立憲制の下での税法や検査法、徴税機構などの改正を必然化した。とくに主税局が直轄化を構想していた間税部門だけでなく、課税の公平の観点から所得税などの直税部門にも調査が必要となった。明治26年の収税署の設置にあたっては、直税部門(直税・徴収)を府県収税部機構から分離して府県財務部への吸収をはかる議論があったが、直税調査の統一化の必要性から収税部機構の維持が図られ、収税部−収税署体制となったのである。
明治29年の税務管理局と税務署の設置は、このような経緯で維持されてきた収税部−収税署を税務管理局官制により直轄化したもので、明治24年以降の国税徴収機構改革の延長線上に位置づけられるものであった。そして大蔵省による国税徴収機構の直轄化は、府県制・郡制の施行という地方団体への自治制の導入を契機になされたのであり、これにより立憲制のもとでの国税徴収機構が確立したといえるのである。

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