井上 博之

研究科第36期
研究員


はじめに

 1986(昭和61)年度の税制改正により我が国は移転価格税制を導入した。その後、移転価格課税事案の相互協議に基づく延滞税及び還付加算金の取扱いに関する特例を新設し(1987(昭和62)年税制改正)、移転価格税制を適用した更正決定等の期間制限を6年とし、さらに比較対象企業に対する質問・検査権限を新設する改正(1991(平成3)年税制改正)を行い、執行上の法的な整備を行ってきた。また、2000(平成12)年9月には、比較対象取引、独立企業間価格の算定等を規定した移転価格に係る法令解釈通達を発遣している。移転価格税制を適用した課税件数は、1999(平成11)事務年度で38件(前年度59件)、課税所得も454億円(同589億円)にのぼっている(1)。一方OECDでは、1995(平成7)年から順次公表されたいわゆる移転価格ガイドライン(Transfer Pricing Guidelines for Multinational Enterprises and Tax Administrators (1997))を完成させ、また、世界的に移転価格税制をリードしているとも言える米国は、移転価格に関する最終規則(Final Regulations for Transfer Pricing under Section 482 issued 8, July 1994)を発表し、それに基づく積極的な執行を行っている。世界的には、ドイツ、オーストラリア、カナダ等の先進諸国をはじめ、中国や韓国といった国々が移転価格税制を厳しく執行していることが知られており、その他、東南アジア、東欧、中南米諸国においても移転価格税制の制定、執行について積極的な動きが見られるという(2)
移転価格税制の執行の強化とともに移転価格に係る紛争が増加した。そして、その解決に膨大な時間とコストがかかることが認識されるにつれ、課税庁は移転価格税制の適正円滑な執行の立場から、一方納税者は予測可能性の確保と負担の軽減という立場から、効果的な紛争処理方法を模索し、課税に至る前に紛争を処理するための手段として事前確認制度が注目されるに至った。我が国では移転価格税制導入の翌年から、制度の適正円滑な執行を目的に確認方式を採用し(1987(昭和62)年4月24日付査調5−1ほか2課共同「独立企業間価格の算定方法等の確認について」)、事前確認を実施してきたところである。なお、1999(平成11)年にはその改正(平成11年10月25日付査調8−1ほか3課共同「独立企業間価格の算定方法等の確認について(事務運営方針)」)(以下、「事前確認通達」という。)を行っている。米国では、1991(平成3)年3月に事前確認制度(Advanced Pricing Agreement: APA)を歳入手続91−22により導入し、その後、1996(平成8)年11月に同96−53により改正を行った。OECDでも、上記移転価格ガイドラインに事前確認制度を規定し、さらにいわゆるMAP APA(Guidelines For Conducting Advance Pricing Arrangements Under The Mutual Agreement Procedure)を1999(平成11)年10月に公表している。こうした流れを受け、今後も事前確認を制度化する国は増加すると思われる。
事前確認は、国内でのみ有効なユニラテラルなものでは、一定の安心感はえられるものの、あくまでも部分的な解決にしかすぎないことから、条約締結国の権限のある当局間での二国間、多国間事前確認の重要性が増加している。もちろんこの傾向は、OECDによる事前確認手続に関する作業や、事前確認を採用する国が増えたこと等にもよる。このことは、二国間、多国間事前確認が国内のみの事前確認にまったく取って代わることを意味するものではないが、一般的に二国間、多国間事前確認を指向する傾向は続くと考えられる。
事前確認を行う基本的な理由は、協力的なプロセスを通じた移転価格問題の事前処理がビジネスの不安定さを除くとともに、コストに関して調査、課税といった敵対的な手続よりも低く抑えられるという点にあり、事前確認は、課税当局に注目されるような大きな移転価格問題を抱える企業に関しては、課税庁と企業の両者にとってコスト削減となると考えられている。しかし、実際には相互協議により二国間、多国間で事前確認が合意されない限り完全な紛争処理とはならず、事前確認は課税問題の解決と同じくらいの時間とコストがかかる点が指摘されており、紛争処理方法として優れたシステムであるものの、うまくワークしていない面も見受けられるのが現状である。さらに、移転価格税制導入後一定期間が経過し、移転価格課税を受けた企業が事前確認を申請するケースが増加しつつあり、過去の課税問題を引きずっている場合や、課税期間と事前確認対象期間との間に期間的なギャップがある場合に、課税庁及び相互協議部局の限られた人的資源を考慮し、課税期間、潜在課税期間、事前確認期間に係る最終的な紛争処理をどのように効率的に図っていくかが課題となる。
このような現状を踏まえた上で、本稿は、権限のある当局間の相互協議による二国間、多国間事前確認(MAP APA)に焦点を当てることにより、事前確認制度を納税者に対する行政サービスとして捉えるのではなく、移転価格に係る紛争処理方法の一つと位置付け、その上でその意義を明らかにし、効率的な運用を検討することにより今後の移転価格に係る紛争処理の円滑な執行に資することを目的としている(3)。そして、事前確認のための相互協議を巡る論点についても触れている(4)。第1章においては、事前確認制度の意義、及び移転価格に係る紛争処理手続を概観することにより、事前確認制度の位置付けを明らかにする。第2章においては、我が国の制度とその内容を比較するためと諸外国の事前確認制度の整備状況を確認するために各国の事前確認制度を概観する。第3章では、我が国の紛争処理手続としての事前確認制度の現状での論点を明らかにし、解決方法を模索することとする。
なお、事前確認は、Advance Pricing Agreementとされたり(主に米国)、Advance Pricing Arrangement(日本及びOECD等)と表記されたりするが、本稿では特に区別の必要がある場合を除きAPAと表現する。また、税務当局と納税者の間で国内で確認される相互協議を要しないAPAをユニラテラルAPAとし、相互協議の合意により権限のある当局間で確認される二国間(ユニラテラル)、多国間(マルチラテラル)APAを、特に区別する必要がない限り、OECDの表記(5)にあわせ、MAP APAとする。


(1) 国際税務20−12 3頁

(2) 国際税制研究No.1「移転価格更正リスク管理のフレームワーク」大河原健、柏崎秀幸

(3) 本稿における移転価格に係る紛争とは、租税条約の解釈及び実施に伴う一般的な紛争を言う。

(4) 相互協議については、高久隆太「租税条約に基づく政府間協議(相互協議)手続について」税務大学校論叢23(税務大学校,1993)、倉内敏行「相互協議の対象について−「租税条約に適合しない課税」の解釈に関する一考察−」税務大学校論叢27(税務大学校,1996)を参照した。

(5)  Guidelines for Conducting Advance Pricing Arrangements Under The Mutual Agreement Procedure (Annex) Aii 7

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