齋藤 稔

税務大学校
研究部長


はしがき

 本稿は、共同体との関係に着目して、明治時代の税務行政を通観したものである。ここに共同体とは、町村のような地域共同体のほかに、酒造組合のような納税者の組織する団体を含む概念である。「納税者のグループ化」といわれるときのグループと同じであるが、この時代においては、村の存在が非常に大きな意味を持っているので、共同体の語を用いることとしたのである。
本稿を思い立ったのは、「納税者のグループ化」が、日本の税務行政の特色の一つではないかと思うからである。かって、東南アジア諸国の人に、数回、日本の法人税法の話をしたが、彼等が共通して最も関心を示すのは、我が国の源泉徴収制度と、青色申告制度とであった。前者は、納税者を直接グループ化したものであり、後者は、後発的ではあるが青色申告会と密接な関係がある。また、日本の租税制度の近代化を可能にした地租改正は、福島正夫教授によれば、世界史的にも画期的な大事業であり、その成功の原因の中には、太閤検地以来の検地の伝統と、拙速主義とがある言う。この指摘にも深い感銘を受けたが、この二つの原因が結び付いて具体化したものが、村の利用であると思いもしたのである。
本稿では、第二章に、地租改正が、村に依存し、村を利用し、かつ村の抵抗に遇いながら進められた過程を述べてみた。明治の税務行政史は、ここから筆を起こすのが通常であろう。
しかし、地租改正の成功の原因の一つに、太閤検地以来の伝統が挙げられているので、それがどのようなものか、第一章で考察してみた。それは主として農民側における村の存在、村の性格の特殊性に負うものであるが、幕藩側における年貢増徴策に、増税(率)乃至徴税強化型のほかに、新田開発等による税源の涵養型があったこと、更に、それを具体化する地方(ぢかた)役人として、能吏でかつ仁政型の名代官の抜擢登用があったこと、それは幕藩制の危機に至ると一層切実なものとして実行されたことにも触れてみた。伝統を支えてきたこれらの要素は、明治以後も、あるときは陰となり、あるときは陽となって税務行政史の中を流れているからである。
江戸時代の村は、幕府や領主にとって徴税の便宜のための機関であったが、地租改正後も、その事情は基本的には変わらなかったことを、第三章で考察してみた。この頃の法規や帳簿様式からみても、役所側で把握しようとしているのは村の納付状況であって、個人ではなかった。しかし、江戸時代と異なっているのは、個人に土地所有権が認められていること、村の制度そのものが、近代化とその反動の中にあって、根本から揺り動かされたことである。一時期、税務行政は、その依存すべき共同体を見失って、個人に対する滞納処分が続発している。明治22年の市制、町村制の施行によっても、その事情は変らず、明治40年代の地方改良事業を必要とするに至るのである。
明治30年代以降は、地租に代わって酒税が重要となり、租税収入中の首位を争って遂には酒税が首位を占める期間であるが、第四章では、酒税行政と酒造組合との関係を考察してみた。明治初年、酒造営業人心得書で、結成が要求されているにもかかわらず、その発展ははかばかしくなかった酒造組合は、酒屋会議という減税闘争を契機に、その全国的団結が促進され、減税闘争に失敗したのちは、税務行政に対する反抗の拠り所ともなる。それが今日に見るような酒造組合に変貌する契機は、自家用酒の製造禁止や醸造法の改良による税源の涵養という、官民共通の利益を見出したことにあると言えよう。
第五章は、近代化されたが、住民の人情とは分離した地方自治体の改良のために、自然村を支えてきた伝統の美風などが見直された、明治40年代の地方改良事業について述べてみた。この頃は、税務署が創設(明治29年)されているので、税大租税資料室保管のものから、大分引用させて頂いた。自家用酒の製造禁止によって生じた密造取締り問題も、地方改良事業の手法を取入れることによって、初めて解決の方向を見出していくのであるが、それは、明治時代も終り大正時代に入ってからのことであった。

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