【答え】

4.12本

【解説】

大正時代に日本国内での製造が進んだビールは、生産量を拡大し都市部を中心に普及しましたが、昭和14(1939)年に施行された価格等統制令により公定価格が設定され、原料や製造量も規制を受けるようになり、昭和15(1940)年にはビールの配給が始まりました。更に昭和17(1942)年にはビール販売を統括する中央麦酒販売株式会社が設置され、翌18(1943)年には、農林省に代わって大蔵省がビールを含む酒類の生産、価格、配給の統制を担うようになります。これに伴い製品差異をなくすため各社商標の使用が禁じられ、ラベルは「麦酒」の文字のみとされました。また、この間、戦費調達と奢侈抑制のために、酒税は何度も大幅に増税されました。
 さて、昭和17年11月30日、横浜新港埠頭に接岸していたドイツ海軍の船舶が大爆発事故により大破・全焼し、多数の死傷者が出ました。船を失ったドイツ海軍将兵らは、翌年4月に日本海軍省の斡旋により、横浜のバンド・ホテルや箱根・芦之湯温泉の松坂屋旅館などに逗留することとなります。
 租税史料室には、昭和18年10月、ドイツ大使館付海軍武官P・ヴェネッカーが、横浜地区のドイツ海軍兵470名と東京地区の大使館員40名のために、一人当たり月12本、計6,120本のビールの配給を主税局に要請し、主税局長が中央麦酒販売株式会社に配給を指示した史料が所蔵されています。ちなみにこの年、家庭用と業務用の配給量は大幅に削減されており、当時の一般家庭へのビールの配給本数は、地域によって差はありますが、都市部においては一世帯当たり月2本とされていました。ドイツが同盟国であり、加えてビール大国であったことを考慮しても、極めて量が多かったことが窺えます。ドイツ海軍兵の横浜・箱根における滞在生活は、昭和22(1947)年に帰国するまで続き、当時松坂屋旅館に滞在していたF・マンスフェルト氏は、この間に自身の一番の好物が米、刺身、麦酒になったと後年述懐しています。

(研究調査員 山本 晶子)