【答え】

1.相撲

【解説】

のちの「関脇綾昇竹蔵」こと大場竹蔵(1908-1969)は、宮城県仙台市に生まれ、高等小学校卒業後、仙台税務監督局又は税務署において給仕として働いていました。
 大正12(1923)年、仙台税務監督局に税務監督官として転任してきた鈴木新之助は、大場少年の体格に惚れ込み、「属になれたとしても高が知れているが、関取ともなれば局長や大蔵大臣とも対等に話せるようになる」と、角界入りを熱心に勧めました。ちょうどその頃、千賀ノ浦親方(関脇綾川五郎次)がリンゴを使った飲料の製造免許を申請するために仙台税務監督局を訪ねて来ました。鈴木はこれを好機と見て、大場少年を親方に紹介しました。
 角界に飛び込んだ大場少年は、大正14(1925)年1月場所に綾昇竹蔵という四股名で初土俵を踏み、昭和7(1932)年5月場所に十両昇進を果たし、昭和20(1945)年6月場所を最後に約20年の力士生活に別れを告げ、引退して年寄千賀ノ浦を襲名しました。
 当時の日本社会は雇用関係が流動的であったので、このように思わぬ転身を遂げた者もいたようです。
 なお、当時の官吏(国家公務員)は、高等官(親任官、勅任官、奏任官)と判任官(下級官吏)という二つの等級に分かれていました。新任の高等官は、属(判任官の官名)としてキャリアを始め、大蔵省の各部局で1〜2年の修業を積み、そして税務署長(高等官)に転出しました。その後、税務監督局の直税、間税、経理等の部長(書記官、高等官の官名)等を歴任した後、大蔵省本省に戻りました。判任官は、いわゆる下級官吏として事務全般を担い、年功によってキャリアの最後に高等官に進むこともありました。
 このような官吏のほか、税務監督局の予算で雇用される雇、巡視、給仕、小使、職工等の職員がいました。このうち雇は、属と同等の仕事を行う別格の地位でした。次いで給仕は、高等小学校を卒業した10代半ばの少年少女が採用されていました。雇と給仕は、年功選考によって属や雇などに進む道が開かれており、いわば官吏の予備的な存在でした。
 ちなみに、令和2(2020)年10月の税の歴史クイズ「国税勤務経験のある時代劇作家」(牛米努研究調査員)では、吉川英治が横浜税務監督局の給仕として働いていたことを紹介しています。

(研究調査員 舟橋明宏)