【答え】

1 絹織物

【解説】

地租改正後も、一番遅くまで物納が許可されていた地域は、八丈島です。明治44年の「東京府管内八丈島ノ地租ニ関スル法律」により金納へと改められるまで、島特産の絹織物で納めていました。
八丈島は、伊豆諸島(当時は伊豆七島と呼んでいました。)の一つで、江戸時代は幕府の直轄領でした。八丈島には源為朝が絹織物の技術を伝えたという伝説があり、古くより絹織物が有名でした。八丈島の絹織物は、「黄紬」「黄八丈」「八丈絹」等と呼ばれ、江戸を中心に人気を博していました。江戸時代から伊豆七島の年貢のうち八丈島だけが一貫して絹織物による物納、端数分については金納という形態で、他の島は、基本的に金銭で納税をしていました。そして、明治維新後も、八丈島は絹織物による物納、その他の島は金納という状態は続きました。
明治15年、伊豆七島を管轄していた東京府が、官有地と民有地の区分を確定する事業に着手し、それをもとに明治19年に地租額が決定されましたが、八丈島だけは依然、地租額について金額ではなく絹織物の数量を決定し、現物(絹織物)で納付することとされました。納税の流れは、税務署が島ごとに納税告知書を渡し、島民は織物の原料となる糸を村に納め、村で絹を織り、島の役人を通して政府に納め、政府がそれを公売し、その金額を国庫へ払い込むというものでした。
時代が下り経済状況や服飾の嗜好が変わると、絹織物による現物納は現実にそぐわなくなり、金納に改めてほしいという請願が島民より出されるようになりました。政府も絹織物の公売による入札が毎年一定金額とならないことやコストがかかることから、金納へ移行することの必要性を認め、明治44年に、明治42年以前5年間の絹織物1反当りの売却平均額から算出した金額で地租を納める制度に改めたのです(ただし、納期は翌年5月とされましたので、適用は明治43年分地租から)。金納となり村が各人から現金を徴収し納付したことから、個人が納税の主体となったといえます。これ以降、日本国内の地租は全て金納となりました。

(研究調査員 今村 千文)