【答え】

2兎

【解説】

 明治5年の新聞には、東京で流行するものとして、ザンギリ頭に帽子、新聞屋、士族の商法、牛肉屋の開店、そして「秘密の兎会」と書かれています。鉄道や銀座レンガ街建設など、文明開化の中心となった東京で、外国産の珍しい兎をペットとして飼育することが大流行しました。相撲取や歌舞伎役者のように兎の番付が作られ、高額の展示即売会(兎会)が頻繁に開かれていました。珍しい毛並みの兎は人気を博し、当時の巡査の初任給が4円程度だったのに対し、なかには1羽数百円もの高値で取引されるなど、商家の旦那衆だけでなく華族や士族、僧侶までが熱狂したのです。
 当然、兎は投機の対象となり、兎で一攫千金を目論む者も現れます。そして、ブームの加熱は、普通の白い兎に色を塗った偽物を売る者が現れるなど社会問題化しました。東京府も「兎会」禁止に乗り出しますが、秘密会どころか堂々と「兎売捌所」(うさぎうりさばきじょ)の看板や幟を出す者もいる始末で、その取り締まりに苦慮しました。厄介なのは外国人名義のもので、東京府は政府を通じて各国公使館に禁止を願い出ますが、政府や外務省は外国人の自由な商業活動を制限できないと消極的です。そこで東京府は「華士族の没落」防止を理由に禁止を願い出ますが、今度は司法省が華士族だけの禁止はできないと主張し、日本人だけの禁止令にも反対します。
 東京府は、司法省と協議を重ね、兎の売買を認めるかわりに1羽につき月額1円の兎税を課税しました。飼育する兎についても毎月届け出ることとし、無届の場合は2円の過怠金が課せられました。兎1羽で月1円というのは、とんでもない重税です。
 この兎税により兎の価格は暴落し、兎会はもとより、店先からも兎は姿を消します。異常なブームは沈静化しますが、兎にとっては悲劇でした。二束三文で売買されたり、川に捨てられたり、ひどいのは「しめこなべ」にされたものもありました。ただ、一部の愛好家たちは、その後も高い税を払いながらペットとして飼育し続けたようです。

(研究調査員 牛米 努)