【答え】

3 枡(甲州枡)

【解説】

甲斐国の三郡(山梨・八代・巨摩郡)では、江戸時代を通じて「甲州枡」と呼ばれるこの地方限定の公定枡が使用されていました。甲州枡には、いくつか種類がありました。なかでも代表的な鉄判と呼ばれた枡は、一升枡で、寸法は四方が7寸5分、深さは3寸4分5厘ほどでした。これは、一般的な公定枡であった京枡一升の約3倍にあたります。
また、甲斐国の年貢の納め方に「大切小切制」といものがありました。大切小切制とは、上納するべき年貢米全体の3分の1を、1両につき米4石1斗4升の割合で換算し金納させ(小切)、残りの分の3分の1(全体の9分の2)を江戸幕府の公定米価である御張紙値段で換算し金納させ(大切)、そして残り(全体の9分の4)を米納させるものです。金1両につき米4石1斗4升の交換比率は米価が安く設定されており、農民たちに有利でした。
甲州枡や大切小切制は、同じく地域限定で流通していた金貨である甲州金とあわせて、甲州三法と呼ばれています。甲斐国の農民たちは、甲州三法を武田信玄以来の由緒を持つ恩典と考え、変更に対しては強く抵抗しました。江戸幕府は、江戸時代の初頭からこの地方で広く農民の間に定着していた甲州三法を廃止することができませんでした。しかし、明治時代になると明治政府により、甲州三法は公的にはすべて廃止されることになりました。
江戸時代には、一般的に年貢は米の容積で賦課され、重さで賦課されてはいませんでしたので、年貢米を計量するために秤は使用されませんでした。ちなみに、江戸時代の秤の製作販売は守随家(東三十三か国)と神家(西三十三か国)が独占していました。また、江戸時代には全国的に、家の当主である農民は、独自の印を持ち使用していました。

(研究調査員 鈴木 直樹)