【答え】

2 藩主の飼い犬の餌代として領民に課す租税

【解説】

犬銀は、信州松代藩(真田家)の税目で、犬は、愛玩用のペットではなく、殿様が鷹狩りで連れ従わせる猟犬のことでした。鷹狩りは、古代から権力者の娯楽として行われており、戦国時代以降は織田信長や徳川家康に好まれ、8代将軍徳川吉宗が制度を整えました。諸大名は、自領内に狩場を設定し、参勤交代で江戸滞在中には幕府に狩場を借りて、鷹狩りを楽しみました。松代藩では、このような猟犬の餌代を租税として、領内全般に課していたのです。
犬銀の他にも、動物の餌に関する租税がありました。
鷹狩りの鷹は、狩猟に用いる猛禽類全般(鷲・鷹・隼)の呼称で、肉食の鳥でした。そのため、幕府や諸藩では、毎日鳥肉などの餌を準備する必要がありました。幕府では、江戸周辺の村々に虫や小鳥を租税として上納させました。次いで、鷹狩り制度を整備した徳川吉宗により、鳥の売買を独占する鳥問屋10軒が設定され、のち岡鳥問屋8軒と水鳥問屋6軒に分かれました。岡鳥問屋は幕府の御鷹の餌鳥請負人を兼ね、鳥を捕獲する餌差(えさし)に交付する免許鑑札836枚を預かり、餌差を編成・管理し、幕府には年間に雀換算で40万から50万羽の鳥を上納していました。問屋は、上納した残りの鳥を独占的に売買することができたのです。
また、江戸時代の人々にとって、最も馴染みが深い動物が馬でした。武士は農村を離れ、城下町で生活していたので、都市部で馬の餌を調達する必要がありました。諸藩などでは、糠藁(ぬかわら)代という雑税(小物成)がありました。古くは現物納で馬の餌とされてきましたが、次第に代銭納となりました。都市部の馬は、糠と藁を餌にしていたと思われます。ただし、糠藁代は幕府の税目にはありませんでした。一方で、馬の兵糧は、運搬の便もあり、中世から大豆が充てられてきました。大豆の確保には、年貢米の一部を大豆に引き替える、年貢のほかに付加税として大豆を課すなどの方法が採られました。兵糧としての大豆は、幕府と諸藩で共通し、独自の税目ではなく、年貢や年貢の付加税として課されていました。

(研究調査員 舟橋明宏)