答え

 三菱の第3代社長、岩崎久弥です。(参考文献:阿部勇『日本財政論(租税篇)』(改造社、昭和7年))

解説

 我が国最初の所得税の申告は、明治20年7月に行われました。当時は、個人所得だけが課税対象でした。明治20年の所得税の課税等級と税率は、1等(3万円以上)3%、2等(2万円以上)2.5%、3等(1万円以上)2%、4等(千円以上)1.5%、5等(300円以上)1%でした。納税者の総数は12万人弱ですが、そのうち10万人強は最低税率の第5等です。
 阿部勇『日本財政論(租税篇)』(改造社、昭和7年)という本には、このうち1等から2等までの申告者と申告額が掲載されています。これによれば、第1等に該当する申告者の府県別ランキングは、以下の通りです。第1位東京府(42名)、第2位神奈川県(7名)、第3位大阪府・三重県・鹿児島県(2名)、第4位山形県・山梨県・新潟県・兵庫県・徳島県(1名)。東京府45名のうち半分以上は、旧大名や公家などの華族が占めており、上位には毛利元徳(旧山口藩主)や前田利嗣(旧金沢藩主)、細川護久(旧熊本藩主)などの名前がみえます。これらの旧大名を抑えて第1位となったのが岩崎久弥で、第2位は岩崎弥之助でした。三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎は明治18年に没し、弟の弥之助が第2代社長となります。そして明治26年の三菱合資会社の発足にともない、弥太郎の長男である久弥が第3代社長に就任しますが、この時期の久弥はまだアメリカ留学中の身です。しかし久弥は岩崎弥太郎の継承者ですので、申告額は約70万円に上っています。弥之助の申告額は約25万円ですが、それでも申告額ランキング第3位の毛利元徳が17万円台ですから、岩崎家の2名の申告額が、いかに桁外れの額であったかがわかります。あの渋沢栄一ですら、10万円弱の申告額であったことが、本文献から見て取れます。
 当時の三菱は、西南戦争の軍事輸送をはじめとする海運業をもとに、高島炭坑の買収、造船業や銀行業などへの多角化を進めている時期にあたります。丸の内の陸軍用地の払い下げを受けるのは明治23年ですから、まだまだ発展途上期の申告額であるといえます。
 ちなみに、この日本初の個人所得額の申告ランキングが掲載されている本は、租税史料室で閲覧できますので、興味がある方は是非ご利用ください。