問い

 豊臣秀吉が全国を統一する以前、戦国大名は主な税負担者である農民を直接把握していませんでした。では、豊臣秀吉の全国統一後ではどのように変わったのでしょうか。

答え

 戦国大名は、当時の主な税である年貢を賦課するため、領地の農耕地の調査を行いました(=検地)。当時の検地は、戦国大名が家臣や寺社、村などに農耕地の面積、年貢、耕作者などを調査・報告させたもので、必ずしも農耕地の状況を大名に正しく伝えるものとは言えませんでした。また、当時は土地に重層的な権利関係が存在しており、土地は戦国大名のものであるとともにその家臣などのものでもありました。戦国時代の検地は、検地竿で農耕地を測量し、升で収穫量を計り年貢の量を決めていました。これらの竿や升は各大名の間で統一されてはいませんでした。
 これに対し、豊臣秀吉が定めた『太閤検地』では、大名の手によって検地が行われ、土地の権利関係を整理するとともに、直接耕作者(農民)を検地帳に登録して年貢の負担者としました。また、太閤検地で初めて全国統一の検地竿、升が採用されることになりました。
 太閤検地では、1間は6尺3寸(=約1.9メートル)と定められました。文禄3年(1594)に行われた島津家領の大隈・薩摩・日向の太閤検地の際に用いられた検地竿(検地尺)が現存していますが、ほとんど誤差の無い正確なものでした。
 このように、太閤検地では農民の登録と農耕地の測量を正確に行うことにより、年貢の徴収の合理化が図られたのでした。