NETWORK租税史料
 写真の史料は、安永3(1774)年9月16日に蕪町村(かぶっちょうむら、上野国山田郡、現群馬県桐生市)に幕府代官所が発給した普請銀(夫役銭)の領収書です。この普請銀は、公的な普請の費用として村々が負担した金銭で、年貢とは異なる租税の一種でした。
図1図2
 当時の村々に課された租税には二つの種類があり、一つは、土地に課される年貢で、もう一つは、河川の治水工事等に動員される労働力の人夫又はその労働力の代替で納める代銭納でした。近世の初めは、城郭や城下町の修築で、多くの人夫が動員されましたが、近世の中期以降は、河川の治水工事等の人夫が大きな比重を占めるようになりました。このほか、助郷の人馬、城内や陣屋を修繕する人夫、江戸屋敷で働く武家奉公人等もありました。
 領収書の文面には、蕪町村が「関東筋川々御普請銀」を納めたとあり、岩鼻陣屋(現群馬県高崎市)の幕府代官遠藤兵右衛門の手代2名が発給しています。蕪町村は、家数24軒、人数80人、村高70石余りの小さな村でしたが、水害を受けやすい場所にあり、不安定な生産条件に置かれていました。
 蕪町村を含む関東地方は、広大な平野に大小の河川が流れ、度々川が氾濫し、幕府は治水に腐心しました。幕府は、当初より河川の管理体制の構築を目指しました。享保元(1716)年に徳川吉宗が8代将軍に就任すると、全国の河川の普請体制の構築を進め、享保5(1720)年に国役普請制度を発足させました(実際には、関東、東海、北陸、畿内に限定)。また、関東の四つの河川(鬼怒川、小貝川、下利根川、江戸川)を管理させるため、享保9(1724)年に勘定奉行支配の「普請役」という役職を新設しました。
 更に、同じ享保9年に、国役普請の施行細則を定め、国役の対象となる河川を指定し、その河川の普請費用が規定額に達すると、国役普請として認定しました。そして、国役普請として認定されると国役が割り当てられました。国役の普請費用は、10分の1を幕府が負担し、残りの額を各国割としました。
 例えば、関東地方の国役河川に指定された河川は、二つのグループに分かれました。一つは、利根川、小貝川、荒川、烏川、鬼怒川、江戸川、神流川の7河川で、賦課される国は、武蔵国、下総国、常陸国、上野国の本国4国に、お手伝いの安房国、上総国の2国が加わりました。もう一つは、稲荷川、大谷川、竹鼻川、渡良瀬川の4河川で、賦課される国は、下野国の本国1国にお手伝いの陸奥国が加わり2国でした。このように、河川の流域とは関係のない国も手伝いとして参加していたことが分かります。
 役職の普請役は、延享3(1746)年に、関東地方を担当する四川用水方普請役(25名)、東海道五川(大井川、酒匂川、天竜川、富士川、安倍川)を担当する在方普請役(13名)、諸国の臨時御用等を担った勘定所詰普請役(20名)の三課の分立が確定しました。
 これ以降、幕府は関東地方の河川や用水の普請では、勘定奉行配下の普請役が指揮・監督を行い、必要に応じて代官所等も配下に入り、種々の普請を遂行しました。
 なお、このように旧国単位に課された国役は、河川の普請に限定された制度ではありません。その本質は、人身の労働力としての動員又はその代銭納にありました。そのため、国役は、全国の河川の普請のほか、当時唯一の国交があった李氏朝鮮から派遣された朝鮮通信使の応接費用、長崎のオランダ商館長が江戸に参府する経費、将軍が日光山に社参する経費等多様な用途で使われていました。
 このような国役、普請銀(夫役銭)等と呼ばれた制度は、明治維新後も存続しましたが、明治8(1875)年2月に廃止されました。

(2023年3月 研究調査員 舟橋明宏)