NETWORK租税史料

 明治政府は、士族授産(秩禄処分等で困窮した士族の救済策)と殖産興業の方針の下に、全国的な農業水利事業を推進しました。明治12(1879)年に始まる安積疎水開墾事業(福島県郡山市)は全国最初の事業で、全国の九つの藩から約2000人の士族を入植させ、大規模な開墾を行いました。安積疎水は、那須疎水(栃木県)、琵琶湖疎水(滋賀県、京都市)とともに、日本三大疎水と呼ばれています。
 この開墾という言葉は法律用語であり、第二類地(池沼、山林、牧場、原野、雑種地)に資金を費やして第一類地(田畑、宅地、塩田、鉱泉地)に変換することを指します。さらに開墾には、無年期開墾と鍬下(くわした)開墾の二つの種類がありました。無年期開墾は、着手から20年目までは、変換の成否を問わず、原地価で地租が徴収されました。そして、21年目以降は、完成した部分は修正された地価で、まだ完成に至らない部分は原地価で、それらを合わせて地租が徴収されました。例えば、着手から5年目に開拓地が完成しても、20年目までの地租は原地価で徴収されました。
 もう一方の鍬下開墾は、完成までに10年以上を要する大規模な開墾に適用される地租減免期間で、税務署に申請して鍬下年期の許可を受け、開墾の期間が定められました。
 これらの地において開墾が進むと、地味(土壌が農産物を生産する能力)は成熟し、経営資源の再生産が可能になります。すると、開墾地の措置は次の段階に進み、開墾地の地目を変換し、地価修正が行われます。
 安積疎水開墾事業(福島県郡山市)等の大規模な鍬下開墾では、完成までに困難を伴い、順調には進みませんでした。地味は成熟に至らず、地目変換や地価修正を行えない事態になりました。そこでは、鍬下年期の延長(継年期)が課題になりました。
 写真1は、郡山税務署(福島県)で作成された明治44(1911)年「安積開墾関係書類」という簿冊の表紙です。写真2〜4は、その簿冊に収録されている明治34(1901)年の大蔵省主税局長目賀田種太郎による演達(注、訓示のことである)の要旨です。

 この演達の中で目賀田主税局長は、「大開墾と小開墾とは、同じように扱うべきではありません。小開墾は、明治17(1884)年の地租の基礎法令である地租条例に則して処理することができますが、大開墾は地租条例の予想を超えた内容でした。そのため、法律では対応できず、行政処分で処理するしかありません。おそらく大開墾に関する問題は、地租条例が制定された当時から、行政の特別処分に委ねる主旨だったはずです。」と述べています。
 ところで、この同じ年には、この演達が発せられる前に、「鍬下年期、新開免租年期、地価据置年期ノ延長ニ関スル法律」(明治34年4月12日、法律第30号)が制定されました。この法律は、地租条例の第18条に代わる規定でした。法律の名称にある「鍬下年期」は開墾地の年期を指し、「新開免租年期」は埋め立て又は干拓地の年期を指します。そして、「地価据置年期」は、開墾や新開とは異なるものの、開墾地と同じように、資金を投下して開発する土地の年期のことです。同じ土地の開発でも、それぞれ規定が異なっていました。
 このうち鍬下開墾の年期延長の規定をまとめると以下のようになります。明治17年は制定当時の地租条例第18条、明治22(1889)年は同法の改正、明治34年は法律30号を指します。
   明治17年:15年以内の継年期(延長)
   明治22年:20年以内の継年期(延長)
   明治34年:元年期と延長を通して50年以内の延長
 年期が延長される期間を比較すると、次第に長くなることが分かります。目賀田主税局長の演達をみると、「大開墾は地租条例では処理できない事情があるので、明治34年の法律を制定したので広く同法律の趣旨を諭し、その年期の延長を請求するものはこれを延長し、請求しないものには利益を説明した上で延長を希望しない意思の確認をすること」を求めています。
 全体として、明治17年以降、大開墾に対しては、特別な行政処分(通達行政)を駆使し、法律処分と行政処分の二段構えで対応してきたところ、明治34年の法律30号において、新たな年期延長の規定が定められ、対応することになったということです。

(研究調査員 舟橋明宏)

(付記)2022.9.27 一部修正しました。