NETWORK租税史料

 今回ご紹介する史料は、昭和4(1929)年5月9日に開催された、醸造試験所創立25周年記念祝賀式典並びに第25回講習修業証書(注1)授与式の際に作られた創立25周年記念絵はがきと、終了後に催された余興の番組表です。醸造試験所は、現在の酒類総合研究所の前身で、明治37(1904)年、現在の東京都北区滝野川に設置されました。

 早速、史料を見ていきましょう。
 余興の番組表を見ると、狂言のほか奇術や交霊術などが催されていたことが確認でき、式典の盛況ぶりが伺えます(写真1)。
 次に、絵はがきを見ていきましょう。木造の事務所やレンガ造りの研究科本館と別館が写っているもの(写真2)、醤油醸造工場と酒精蒸留場及醸造科事務室が写っているもの(写真3)など庁舎が写されているほかに正門と一緒に写っている肖像写真(写真4)があります。この人物は、初代所長を務めた目賀田種太郎という人物です。

(写真1)
(写真1)
(写真2)
(写真2)
(写真3)
(写真3)
(写真4)
(写真4)

 ここで、醸造試験所の設立の経緯と目賀田との関係を見ていきましょう。
 そもそも日本では、酒と税の歴史は古く、酒税は鎌倉時代から確認できます。
 明治維新後も、酒税は重要な税源の一つとみなされていました。税法の整備や税率の引き上げを幾度か繰り返し、国税に占める酒税の割合が、徐々に上昇し、明治10年代では約6%から約20%へと一挙に伸びました。さらに酒税の占める割合は増加し続け、明治32(1899)年には35.5%と、地租を抜いて税収額のトップに躍り出ます。

 このように、酒税は、明治期は地租とともに、大正期には所得税とともに日本の税収の二本柱となる重要な税源でした。

 ところで、明治中期までの清酒醸造は、蔵人の経験と勘に基づいて行われ、腐造(醸造に失敗して変質すること)が起きることがありました。ひとたび腐造が起こると、その酒蔵が倒産してしまうこともあるほど、深刻な被害がもたらされます。そのため、科学的な清酒製造技術の確立が求められました。酒造業者などから研究機関の設立が要望され、帝国議会や政府でもその必要が認められて醸造試験所の設立が決定されます。農商務省との管轄問題などの紆余曲折を経て、明治37年に大蔵省管轄として醸造試験所が設立されたのです(この過程の詳細は国税庁ホームページ租税史料コーナー内の「税の歴史クイズ」2017年10月号の「醸造試験所の所管」をご覧ください)。

 この時期、大蔵省主税局長だった目賀田は、国税の柱であった酒税の税源涵養の目的から、国が主体となって醸造の学術的研究を行い、その結果を酒造業者に指導する必要性を主張していました。醸造試験所が大蔵省管轄となったのも、目賀田が強力に推したためで、醸造試験所が設立されると、目賀田は所長を兼任します。醸造試験所では、大正2(1913)年からは醤油醸造の試験や講習も開始しますが、これも目賀田が将来、醤油輸出の増加を見越して主張していたことでした。

 醸造試験所は、設立直後からしばしば廃止の危機に直面していました。日露戦争以降、膨張する一方の国家財政の中、行政整理が求められるたび、醸造試験所は廃止対象に挙げられたのです。
 そのような中、目賀田は醸造試験所所長を辞した後も、しばしば醸造試験所を訪れては所員たちを激励し続けたと言われ、醸造試験所の設立だけでなくその存続にも尽力したのです。醸造試験所も、講習会の実施のほか、全国新酒鑑評会の開催、山廃酛や速醸酛(注2)などの醸造方法を考案するなど、実績を重ねていきました。醸造業界の後押しもあり、醸造試験所は廃止運動を乗り越え、創立25周年という節目を迎えたのです。
 目賀田は大正15(1926)年に死去していますが、この絵はがきからは、醸造試験所における目賀田の存在の大きさを窺うことができます。

(注) 1 醸造営業者の子弟を対象に誠実な実地経営者を要請するため酒造講習会を開催し、その修了者に修業証書を授与していました。
2 醸造方法などについては、酒類総合研究所発行の情報誌「お酒のはなし【特集:清酒U】」(PDF/2,603KB)や国税庁インターネット番組「日本産酒類の魅力とは」が参考になります。

(研究調査員 今村 千文)