NETWORK租税史料

 令和2(2020)年、新型コロナウイルス感染は急速に世界規模に拡大し未だ猛威を振るっています。人類の疾患の中でも感染症は常に大きな比重を占めてきました。とりわけ、現在の私たちも実践している感染予防法や公衆衛生法が確立されるきっかけとなったのが、19世紀のコレラ・パンデミックです。日本での流行は、文政5(1822)年の「文政コレラ」から始まり、幕末期に諸外国との交易が盛んになると感染規模は飛躍的に拡大しました。明治時代に入ってからも「伝染病中最急劇ナルモノ」と恐れられ、特に明治12(1879)年と同19(1886)年には死者が10万人を超える爆発的な流行となりました。
 こうした深刻な流行にもかかわらず、明治時代の初期においては、防疫のために必要な諸経費を各自治体において自ら支弁しなければならず、限られた財源から諸経費を捻出するために試行錯誤していました。
 写真1は、明治12年9月に茨城県の臨時県会で成立した「虎列刺(コレラ)病予防費」の予算内訳です。臨時県会ではコレラの予防費として、雇医者・立番巡査・雇人の給与と旅費、検疫委員の給与、避病院・検疫所の設置運営費、消毒薬買入費を準備し、県内に避病院を12か所、検疫所を20か所設置することになりました。検疫委員というのは、コレラの流行が「猛劇」である場合に、地方長官が内務卿に許可を得て、医師・衛生吏員・警察官吏・郡区町村吏から選出し、予防消毒の事務に当らせた役職です。この臨時県会においては、急遽発生したコレラ予防費総額13,515円を賄うために、県内15万8,468戸に対し、追加で一戸につき7銭ずつ賦課し(計11,092円76銭)、地方税収支の残余金2,525円21銭7厘と合わせて支弁(差引102円97銭7厘残余)することが決議されました。もちろん、国庫からの支給はありません。
 1890年代に入ると、明治憲法に基づき初期議会が開設され明治日本は近代国家として新たなステップを踏み出し、それに伴って防疫体制や国税の徴収機構も大きな変革を迎えます。明治23(1890)年に府県制・郡制が公布されると、府県が担っていた地方衛生行政は警察の管轄下に置かれ、中央集権的な防疫体制が整えられました。国税に関しても、明治29(1896)年にそれまで府県が行っていた税務行政を国(大蔵省)が直接管掌するようになります。
 明治30(1897)年に公布された「伝染病予防法」において、ようやく防疫費に関する国庫の負担割合が定められました。それに基づき、翌年に制定された法律第四号「伝染病予防法ニ拠ル敷地免租ノ件」では、常設の伝染病院・隔離病舎・隔離所・消毒所の敷地に関して、工事着手の月から供用廃止の月まで月割りで地租を免除することが規定されました(写真2)。1900年代に使用されていた「免租地現在表」様式には、「病院敷地」のほかに「隔離病舎敷地」、「隔離所敷地」、「消毒所敷地」、「検疫所敷地」の項目が並んでいます(写真3)。実際にこの様式を用いた当時の記録を繙くと、集落が密集し感染が拡大しやすい都市部に伝染病院が数多く設置されていたのに対し、隔離病舎は広大な土地を確保できる郊外に集中していました。
 このように、明治期における防疫体制の成立過程を税金の切り口から見てみると、府県で防疫費用を工面し地域で相互扶助をしていた段階から、免租規定が定められ市町村・道府県・国で防疫費用を分担する段階へと移行していった様子が窺えます。防疫体制の財政基盤は、明治日本が中央集権的な仕組みを整え近代的な国民国家を形成する歩みのなかで盤石なものになっていったのです。

(研究調査員 山本 晶子)