戦後初の納税表彰

 写真1は、岐阜県恵那郡富高村・飯羽間村連合役場(恵那市)が明治27(1894)年に作成した地租名寄帳です。地租名寄帳は、地租の納税義務者ごとに土地を集約した帳簿です。書き込まれた内容から見て、明治31(1898)年ごろまで使われていたようです。明治29(1896)年11月1日に税務署が創設されたので、その前後にまたがる時期に当たります。
 地租は、当初、府県が所管していましたが、税務署創設後は税務署に移管されました。しかしながら、地租の徴収事務は、一貫して市区町村が担当し、集めた地租は、国庫に送納していました。このような市区町村が地租を徴収する体制は、昭和22(1947)年まで続き、全国の市区町村では、地租の徴収のため、地租名寄帳が整備されていました。
  この地租名寄帳は、飯羽間村分の5冊のうちの1冊で、表紙には「第弐号」と記されています。地租名寄帳は、納税義務者(所有者、永小作人、質取主)ごとに、宅地、田、畑、雑地の四つの地目に分けて書かれています。写真2・3は、「伊藤助蔵」の田の地目の部分(「田之部」)です。「現在額及異動」「大字」「字(小字)」「番号(地番)」「地目」「段別(面積)」「地価」「地租(額)」「摘要」の項目欄があり、末尾で、段別、地価、地租の現在額が集計されているのが分かります。
 明治22(1889)年に制定された土地台帳規則により、地券が廃止され、土地台帳が地租の基本帳簿になりました。当初、土地台帳は府県が管理していましたが、税務署創設後は地租を所管する税務署に移管されました。日々の経済活動や自然環境の変化によって土地の異動(種類の変更等)が生じます。それに合わせて土地台帳を更正していくことは、税務署の重要な仕事になりました。
 特に、地価の修正を伴う土地の異動が生じた場合、納税義務者が1か月以内に税務署もしくは市区町村に地目変換等の異動の内容を申告する必要がありました。市区町村に提出された場合、申告書はそのまま税務署に送付され、税務署では土地台帳の更正を行い、税務署に提出された申告分と合わせて、土地異動通知書を改めて市区町村に送り、市区町村でも地租名寄帳等の関係書類の更正を行いました。
 市区町村は、地租名寄帳に記載された、各納税義務者ごとに各地目の末尾で集計した地価や地租額を基に「地租名寄帳集計簿」を作成し、税務署に各地目の地価や地租の合計額を報告します。税務署では、「市区町村報告地価地租整理簿」を作成し、税務署側の書類による集計額と市区町村の報告額とを照合して、誤記や更正漏れを検証しました。税務署では、市区町村ごと、地目ごとに地価や地租を集計して検証しましたが、納税者ごとの納税額は算出していませんでした。
  当時の税は、地租に限らず、申告納税制度ではなく、賦課課税方式であったため、最終的に税額を決めるのは税務署長でした。しかしながら、地租に関しては、税務署と市区町村において、上記のようなやり取りを行い、税務署長ではなく市区町村が地租名寄帳を基に、納税告知書(俗に「切符」と呼ばれました)を作成し、納税者に税額を通知しました。
 このように、市区町村の地租名寄帳により、納税者ごとの納税額が集計されていく点に、地租の事務手続は他の税目にはない大きな特徴があったのです。  

(研究調査員 舟橋明宏)