NETWORK租税史料

 このたび、租税史料室に仙台税務監督局の機関誌がまとめて寄贈されました。具体的には、明治36(1903)年10月に創刊された『会報』(第一号〜第五巻第八号)、明治40(1907)年9月に同誌が改称した『財務之友』(第五巻第九号〜第十巻第十号)、大正3(1914)年より東北財務協会が刊行した『東北財務』(第三号〜第二三号、第二〇七号〜第二一三号)です(写真1)。明治末期から各税務監督局で機関誌を発行する動きが見られましたが、今回寄贈された『会報』はその中でも最初期に当たるもので、欠巻がほとんどなく保管されていた点でも大変貴重な史料群となります。
 『会報』を刊行していた仙台税務研究会は、明治36(1903)年9月に仙台税務監督局内に創設され、監督局及びその管内の税務署職員によって組織されていました。設置目的は、租税に関する法令、税務行政の改善方法及び税務に関する事実問題を調査研究し、併せて会員である税務職員の品性を修養することにありました。『会報』は、次のような内容で構成されています。すなわち、税務に関する研究成果を掲載した「論説」、「討議」、「講演」、学問品性の修養に関する金言を載せた「古人今人」、訴願訴訟判決例や学説統計報告類を所収した「資料」、税務に関する講話・寄書や会員の詩歌文章その他見聞録等を収録した「雑録」、そして税務執行に関して生じた人事異動等の事項をまとめた「会報」です(写真2)。
 研究会が創設された当初の会合においては、税務に関する調査研究は当然のことながら、中でも税務職員の品性の修養が「急務」と強調されていました。会長である佐々木藤太郎仙台税務監督局長は、開会に際して、「要は謹直の塁を高ふし清廉の濠を深ふし、正義を銃として、誠心の丸を装し、剛直の剣を提け、只奮戦するあるのみ」(『会報』第一号、5〜6頁)と説いています。会長の熱意に応えるように、その後の『会報』では税務職員の学問品性をどのように修養したらよいか度々議論が繰り広げられ、毎号の「古人今人」では、品性修養の鑑として古今東西の偉人が残した金言の数々が紹介されました。創刊号に掲載された徳川家康の「堪忍は無事長久の基」という教えに始まり、当初は主に日本の偉人の金言が並んでいましたが、号を重ねるうちに、欧米の公徳談やユダヤ系金融資本家のロスチャイルド家の家訓、T・ルーズヴェルト大統領やビスマルクなど同時代に活躍していた政治家の言が登場するようになります。
 ところで、仙台税務研究会が発足した明治36(1903)年の暮れは、ちょうどロシアとの開戦機運が徐々に高まっていた時期に当たります。『会報』では、発足して5か月後に日露戦争が始まると、出征した税務職員との通信が掲載されるようになりました。明治37(1904)年4月より、軍労を慰するために『会報』が戦地の会員に寄贈されており、同年8月以降には、出征中の税務職員から会宛てに定期的に従軍記が届いています。未曾有の戦死傷者を出した旅順要塞攻略直後の明治38(1905)年1月25日には、局署職員が賞給与から拠出した恤兵献金142円40銭を陸軍恤兵部へ送金しており、さらにそのわずか三日後には、会長と理事が、会を代表して宴会費の一部22円を陸軍予備病院に寄付した記録が残っています(写真3)。
 日露戦争後の日本国内においては、大国ロシアへの戦勝が華々しく称賛された反面、日本国民の納税意識や遵法精神の低さが問題視されていました。例えば、日露戦争が終息した明治38(1905)年8月の記事「酒母醪及麹取締法の励行に就て」は、酒の密造を取り締まる新法が発布されるたびに法令の抜け道を探し密造を企む者が増える現状を憂えています。「苟も東洋立国の覇者となり世界列強と比肩せむと欲する我が同胞が国法を蔑視し何等忌憚なく倍々不正行為を逞ふして遂に停止する処がなかったならば我が財政は如何になりましよう、陸海軍人は生命を犠牲として偉大の戦勝を得、為に有利の講和を収め得るとしても、〔中略〕遂には空前の戦勝をして戦果を空ふせしむる様なことがないとも限られません」(『会報』第三巻第八号、54〜55頁)。このように初期の『会報』には、日露戦争に勝利し、いよいよ列強と比肩する「一等国」に成長したにもかかわらず、そうした戦果を空しくするほどに日本国民の納税意識がまだ低いことを嘆く記述が複数見られます。
 一方で、『会報』を読み進めていくと、先述したように、文明化された「一等国」の官吏として自らも品性と智徳の修養に努めていた税務職員らが、並々ならぬ気概を抱いていた様子が随所に伺えます。福沢諭吉が唱えた「一身独立して一国独立す」(『学問のすゝめ』第三編、1873年)の精神を正に体現しようとした明治末期の税務職員の熱気ある息遣いが感じられる史料群です。

(研究調査員 山本 晶子)