NETWORK租税史料

 衆議院の選挙権は、明治23年(1890年)の第1回総選挙では直接国税15円以上と、納税額による制限があり、大正14年(1925年)にそれが撤廃され、普通選挙が行われるようになった(ただし、女性には選挙権は付与されず)ということは、教科書にも書かれています。
 ところで、同時期の貴族院(現在の参議院の前身)には、各府県で多額納税者の互選で選ばれた多額納税者議員という議員がいたことは、あまり知られていません。
 今回紹介する史料は、大正14年の貴族院令改正を受けて内務省(現在の総務省)が作成した冊子『貴族院多額納税者議員選挙の心得』です(写真1)。
 内容を見てみましょう(写真2、3)。
 まず、「選挙が正しく行はれることは国の政治が正しく行はれる本でありますから、利欲に迷はされたり、情実に捉はれたりして心にもない投票をする様なことがあってはなりませぬ」と、選挙の理想を掲げ、以下、禁止事項を挙げています。中には、銃や刃物を持って選挙会場に行ってはいけないなど、今では驚くような注意書きもあります。
 この史料が作成された時期は、民主化のため普通選挙や貴族院改革を求める第二次護憲運動が最高潮を迎えた頃で、加藤高明内閣の下、衆議院議員選挙については直接国税の納税額による選挙権の制限を撤廃しました(いわゆる普通選挙法)。それと同時に貴族院令も改正され、帝国学士院会員議員が新設されたほか、多額納税者議員についても見直しが行われました。
 そもそも貴族院について、大日本帝国憲法起草者の一人である伊藤博文は、華族たちだけでなく「勤労学識及富豪ノ士ヲ集メテ国民慎重熟練耐久ノ気風ヲ代表」すると説明しています。即ち、「慎重熟練耐久ノ気風」を体現することを期待された「富豪ノ士」が多額納税者議員なのです。多額納税者議員は、貴族院設置当初は各府県の多額納税者上位15名のうちより互選して選ばれました。
 選出システムは、まず各府県知事が管内の多額納税額上位15名(すなわち有互選資格者)の名簿(氏名年齢のほか職業、納税額などを記載)を作成、告示します。この15名で互選し、最多得票者1名がその府県の多額納税者議員となるのです。なお、この「多額納税」ですが、その対象税目は当初は地租と所得税とされていました(明治29年に営業税が国税となると、営業税も加えられました)。
 各府県15名が多額納税議員の互選者として選ばれましたが、税額による線引きではなく、あくまで各府県での一律に地租、所得税等の直接国税の納税合計額上位15名という線引きでした。そのため、明治23年の第1回多額納税者議員選挙では、A県では15名のうち納税額の最高額が約11,000円で最低額が約2,700円であったのに対し、B県では最高額約450円、最低額約200円と大きな開きがあり、同じ税額を納めていても府県によっては互選資格が得られないという問題点がありました。この問題を大正デモクラシーの風潮の中で改めようとしたのが、大正14年の貴族院令改正です。
 北海道や各府県の人口や経済状況に応じて、北海道、東京や大阪、京都、神奈川、兵庫、新潟など19の道府県は多額納税者上位200名から2名を、それ以外の県では多額納税者上位100名から1名を互選するように改めました。これにより、「多額納税者」の不均衡を少しでも解消するとともに、裾野が広がったといえます。
 この冊子が作成された理由は、大正14年の貴族院令改正に伴い、多額納税者議員選挙違反については改正衆議院議員選挙法の罰則の規定が適用されるようになり、選挙の取締りもより厳重になってきたため、注意喚起のためにこのような小冊子を作成したのです。また、衆議院の普通選挙の実施も視野に入れて、互選の有資格者が激増した多額納税者議員選挙において公正な選挙を啓蒙しようとしたと考えられます。
 翌年の大正15年には、後藤新平(関東大震災で被災した東京の復興計画を立てたことで有名)が、政治の腐敗を懸念して「政治の倫理化」を目指し、情実に捉われない選挙を目指し全国を遊説しました。
 大正14年の衆議院選挙法改正が目立ちますが、またその一方で、貴族院令改正により、「多額納税者」の裾野が広がり、公正な選挙をめぐる空気が醸成されていきました。今回の冊子は、当時の雰囲気をよく物語る史料です。

研究調査員 今村千文