今回紹介する史料は、嘉永5(1852)年に作成された、「給所子免相帳」という三冊の帳簿です(写真1)。本史料には、信州松代藩真田家が家臣に与えた知行地(給所・領地)の村名、その石高や年貢率(免相)・年貢量などが書き上げられています。知行地を与えられた家臣の人数や知行高から、本来であればもう一冊存在し、全四冊で構成されていたと思われますが、残念ながら三冊しか伝存していません。
 元和8(1622)年、初代藩主真田信之(真田信繁(幸村)の兄で、大河ドラマ「真田丸」では大泉洋さんが演じている)が松代(長野県長野市)に入封したことで、真田家による松代藩政が始まりました。松代藩の家臣には、領地を与えられた知行取(地方知行)と、米を支給された蔵米取(蔵米知行)などがいました。
 江戸時代の武士は、幕府や藩から米(籾)や金を支給される「サラリーマン」というイメージが一般的ですが、松代藩真田家のほか、徳川御三家・仙台藩伊達家・金沢藩前田家・萩藩毛利家・熊本藩細川家・薩摩藩島津家など石高規模の大きな藩は、江戸時代を通じて家臣に領地を与える地方知行制も採用していました。本史料は、松代藩で行われていた地方知行制の実態を知ることのできる、貴重な史料なのです。
 三冊の「給所子免相帳」には、知行取藩士191名分の知行地についての記録があります。知行石高の最高は1,200石、最低は24石でした。1,200石の知行地を与えられていた望月主水と恩田靱負は、共に藩の家老職を務める家柄でした。また、最も人数の多い階層は100石台で、91名でした。
 「給所子免相帳」には、江戸時代後期の兵学者・思想家として有名な、佐久間修理(象山)の知行地と年貢量に関する記載もあります(写真2)。
 本史料によると、佐久間象山の知行高は100石でしたが、このうち50石は「御借高」(藩の借上げ)とされ、実質的には半分の50石分しか知行地が与えられていませんでした。これを、半知借上と言います。半知借上とは、藩の財政難対策として藩が家臣の知行・俸禄の一部を借上げることで、松代藩では、寛保元年(1741)ごろから恒常的に半知借上が行われるようになりました。
 また、佐久間象山の知行地分(50石分)として村々が納めた年貢量は109俵4斗8升8合6勺でしたが、実際には佐久間象山の年貢収入は70俵で、残りは藩の収入とされました。これは、当時の松代藩では、知行取藩士が知行地から得ることのできる年貢量が藩により制限されていたためです。
 佐久間象山の50石の知行地は、上野村(15石)・四ツ屋村(30石)・南長池村(5石)の三ヶ村に設定されていました。しかし、嘉永5年の本史料には、佐久間象山に年貢を納入した村として知行地の四ツ屋村の名が無く、代わりに三輪村の名が記されています。四ツ屋村は、弘化4(1847)年の善光寺地震により壊滅的な被害を受けたため、佐久間象山は四ツ屋村の代わりに三輪村の年貢を藩から支給されていたのです。
 このように、松代藩では、知行取藩士は知行地を支配する領主でありながら、知行地からの年貢を全て得ることはできませんでした。しかし、知行地が自然災害を受けた際には、藩が代わりとなる村を用意することで、知行取藩士は安定的に年貢収入を得ることができました。

(研究調査員 鈴木直樹)