江戸時代の年貢の納期と領収書

 史料は、年貢を受領した領主の役人(地頭所役場)が、その年貢を支払った深輪村(埼玉県北葛飾郡杉戸町)の名主に渡した領収書です。

 領収書の宛先には、深輪村の名主五右衛門とあります。一般的な江戸時代の村では、名主1人の下に複数の組頭が置かれることが多く、戸数が数百軒に達するような大きな村では、複数の名主が仕事を分担し、それぞれの下に複数の組頭が置かれる形になっていました。深輪村は、戸数的には名主が複数必要となるような村ではありませんが、一つの村に複数の領主がいる相給(あいきゅう)の村で、旗本の酒井・松井・村上・都築の4氏の支配を受けていたことから、その給分(支配範囲)ごとに名主・組頭が置かれていました。領収書に領主名が明記されていないので、名主五右衛門がどの給分に属していたのかは分かりません。

 領収書の中味を見ると、年号はなく旧暦6月7日(新暦7月下旬前後)に「夏成金」(なつなりきん)として金4両を受け取ったと記されています。夏成は夏に納める畑の年貢のことで、金銭で納入されるのが基本でした。日付が6月になっているのは、麦の収穫期に合わせて納期が設定されていたからです。当時の麦は、秋から初冬にかけて種を蒔き、越年栽培をして翌年の初夏に収穫する作物(冬小麦)でした。

 麦を収穫した後に夏成を納めると、いよいよ米の収穫期を迎えますが、それに先立って、その年の年貢率が決められました。通常の作柄であれば、期間を決めて同じ年貢率を踏襲する定免制(じょうめんせい、免は年貢率のこと)が採用されましたが、凶作の年には、作柄調査の検見(けみ)が行なわれ、年貢率が決められました。夏成金は、検見の前に予定額を先に納めることになるので、年貢率が確定した秋以降に、米納分との調整が行なわれましたが、詳しい実態はよく分かっていません。

 作柄を調査して年貢率が設定されると、仮免状が発行され、村に通知されました。旧暦8月(新暦9月下旬前後)から早稲(果実の成熟が早い品種)、旧暦9月(新暦10月下旬前後)から中稲(なかて)の収穫が始まります。秋年貢の秋成(あきなり)の納入が始まり、早中晩の米の収穫時期に合わせ数回に分けて納入されました。

 秋成が分割納入されている途中で、本免状として年貢割付状(ねんぐわりつけじょう)が発行され、年貢の総額(量)と最終的な納期(皆済期日)が村に通知されました。年貢の皆済期日は、旧暦12月に設定されたので、冬成(ふゆなり)と呼ばれました。

 このように、年貢の納期が数回に分かれていたので、それぞれの納期に納めるときに、「小手形」(こてがた)と呼ばれる仮の領収書が発給されました。この史料も夏成を納めたことを証明する仮の領収書だったのです。そのため、領主名や年号を省略した簡易な様式になっていたと考えられます。

 冬成の納期が終わり、その年の年貢が皆済されたことが確認されると、翌年の1月か2月に正式な領収書として年貢皆済目録が発行され、村に渡されました。皆済目録では、給分の領主名や年号が明記され、年貢をきちんと納めた証拠として村で大切に保管されました。小手形は、皆済目録が給付されるときに引き換えで回収されたので、村に未回収のものが残されることは多くありませんでした。

(研究調査員 舟橋明宏)