昭和22(1947)年の所得税法の全文改正により、所得税に申告納税制度が導入されました。申告納税制度は、戦後の民主化政策の下、租税の民主化とうたわれました。
 それまでの所得税は、毎月徴収される給与などに対する源泉課税(源泉徴収による課税)の方法と、事業所得などに対する賦課課税とに分かれており、賦課課税は、前年の所得金額の実績を標準とする実績課税の方法が採られていました。そのため、当時の急速なインフレの下では、源泉課税の方法とその年の所得が反映されない実績課税の方法とでは負担の公平を著しく欠くことになりました。そこで、所得税法を改正し、実績課税について、その年の所得金額を納税者が申告し、自ら税額を算出するという、予算申告納税制度が採用されました。
 昭和22年4月1日に改正法が施行された後、最初の予定申告と納期は、臨時措置により4月から6月に延期されましたが、税務署及び納税者の準備不足もあって、同年7月15日現在の申告状況は、昭和22年度当初予算の見積りに対し、人員で57%、所得金額で37%、税額では17%にとどまる惨憺たるものでした。同年12月末の税額も予算の3分の1に過ぎず「租税の危機」が叫ばれました。予定申告に対する当局による更正・決定は遅延し、ついに翌年1月の確定申告と更正・決定がかち合うなど、納税上の困難の一因となりました。そこで、各地の軍政部も徴税の確保を最優先に掲げ、これに従い、税務当局による徴税目標の設定及び大量の更正・決定や差押処分という徴税が強行されました。

このような中、昭和22年12月、衆議院と参議院において「租税完納運動に関する決議」がなされ全国的な租税完納運動がスタートしました。両院は、政府に対して財政確保の努力を求めると同時に、国民にも一致協力して租税の完納を求める租税完納運動を呼びかけたのです。
 ここに紹介する史料は、昭和23年8月の「租税完納運動方針書」【史料1】です。この史料は、昭和23年6月末から7月初頭にかけて東京で開催された、租税完納運動地方本部全国連絡会議で決定した運動方針をまとめたパンフレットで、組織構成を含めた活動の概要を知ることができる貴重なものです。
 この運動方針書では、中央本部と各都道府県を単位とする地方本部を設置し、全国的な宣伝活動を展開するとしています。中央本部の役員は本部長・理事・委員等から成り、名誉顧問は衆参両院議長です。各都道府県の地方本部長には、知事や県会議長又は衆参両院議員などが就任しています。しかし、その当時未だ6県(沖縄県を除く。)で地方本部が設立されていません。
 昭和22年12月上旬に、中央本部の声明、衆参両院の決議及び納税運動発足大講演会の開催などが計画されていましたが、中央本部の発会式は昭和23年1月31日でしたので、必ずしも計画どおりには進まなかったようです。また、新聞・雑誌、ラジオ、パンフレット・ポスターなどによる宣伝、「国の台所展」や「納税の夕」の開催など、様々な宣伝活動も計画されていましたが、具体的な史料は余り多くは残されていません。
 租税史料室に所蔵されている史料としては、群馬県の納税ポスター(昭和23年)【史料2】や佐賀県の「税金は如何に使用されているか」(昭和24年6月)、京都府の「再建の芽を育てるもの」(昭和24年10月)など、各地方本部作成のポスターやパンフレットがあります。ほかに、昭和26年1月から2月にかけて中央本部と各地方本部が主催した講演会の記録である、中央本部作成の「税金問答集〜税をめぐる講演会速記録より〜」(昭和26年2月)や昭和23年11月に中央本部が大阪府で開催した「納税者と税務職員の夕」のプログラム【史料3】があります。

租税完納運動に関する史料は、税務署等には残っておらず、運動がいつまで続けられたかは不明です。納税完納を目的とする全国的な運動はほかに例がなく、当時の「租税の危機」に対する対応を知る上で貴重な史料といえます。

(研究調査員 牛米 努)