全国初の税務署分室

江戸時代には、酒株を取得した者に業として酒造りを行うことが認められていました。酒株とは「酒造株」とも呼ばれる酒造りの営業権のことで、認可された業者には酒造鑑札が交付されました。鑑札には株高と呼ばれる酒造米高(原料の米量)が記入されており、酒株は酒造制限の基準でした。しかし、酒株は返上しない限り、代々引き継がれていくもので、酒株が交付された時に設定された酒造米高は代々引き継がれているうちに形骸化していきました。

そこで幕府は、それぞれの時代に応じて各領主に、酒造米高や酒造業者数の調査を命じ、報告書を幕府の勘定所等に提出させ、その酒造米高をもって以降の酒造制限の基準としました。

写真

写真は天明5(1785)年に行われた酒造米高の調査に対する酒造業者の回答書です。

この回答書を作成したのは、大和国葛下郡南今市村(現在の奈良県葛城市)の甚兵衛という者で、現在の奈良県大和郡山市に藩庁を置いた郡山藩の領民でした。回答書の提出先は幕府の御番所(奈良奉行所)で、奈良町の町政と大和国全体の広域行政を管轄していました。

御番所からの質問は、1所持している酒造株が交付された当時の酒造米高はどれくらいか、2正徳5(1715)年から現在までの実際の酒造米高はどのようになっているのかの2点です。

甚兵衛は、1百姓を営んでいたが、水不足による不作に遭遇したことを契機に、酒造りを兼業したいことを地頭である郡山藩に願い出ていたところ、株高20石(約3t)の酒造株が認められたこと、2最初の15年ぐらいは株高のとおりに製造していたが、売れ行きが良かったので酒造りは年々増加していき、現在は170石(約28t)ぐらいの酒造米高になっていることを回答しています。つまり、酒造株の株高は20石のままであるにもかかわらず、実際には170石もの酒造米高になっていたことを回答しています。

また、江戸時代には、酒株にはその株高に応じた運上・冥加という雑税が課されました。運上・冥加は、いずれも様々な営業に課されるものです。運上は、酒運上、水車運上、市場運上、漁猟運上、鉄砲運上など、商工業などの営業に対して一定の額を決めて金銭を納付するもので、租税的な性格を有するものでした。冥加は、元来は「報恩」(恩に報いること)という意味であり、幕府・諸藩などが個人や利益集団に与えた特権に対する献金としての性格を有するもので、必ずしも一定の額を納めるものではありませんでした。しかし、その営業を続ける限り一定の額が上納されたので次第に租税的な性格が強くなってきたともいわれています。冥加としては、酒造冥加、油絞冥加、質屋稼冥加などがあり、通常は金銭での納付でしたが、米での納付の場合もありました。

酒株は、明治4(1871)年に廃止され、また、運上・冥加は、免許税・許可税と名称が変更されて、国税に編入され、明治8(1875)年に廃止されるに至っています。そして、酒造りに係る税は、酒造税(後の酒税)へと移行していきます。

(研究調査員 舟橋 明宏)