全国初の税務署分室

かつて、日本には菓子を課税対象とした菓子税がありました。これは、「菓子税則」という法律で定められており、明治18年(1885)に「醤油税則」とともに公布されました。

「菓子税則」では、菓子業者は、免許鑑札料、営業税及び製造税を納付することと定められていました。
 このうちの営業税は、「製造営業税」、「卸売営業税」、「小売営業税」の3種類に区分されており、それぞれの業態ごとに、雇人(従業人)数に応じて税額が定められており、さらに、製造業者は、「製造税」として売上金額の5%が課税されました。

実は、「菓子税則」以前にも、菓子に対しては、各地で「菓子屋税」、「菓子種商税」、「饅頭屋税」、「餡物商税」などの税が課税されていました。この他にも各地には様々な税(雑税)がありましたが、明治8年(1875)に行われた雑税整理(※)の際に整理されました。この時、菓子に対しては、府県が適宜、地方税として課税することができるとされたのですが、この10年後に菓子税が国税として復活することとなったのです。

※ 雑税整理…全国に約1500もあった「雑税」を統廃合して、さらに国税と地方税との区分を明確にした税制改正

菓子税や醤油税が導入された背景には、前年に起きた甲申事変により陸海軍の拡張が急務となり、それを賄う新税創設が必要となったことがあります。菓子税創設の理由について政府は、保護関税がかからない外国からの輸入砂糖が大量に流通し、国内の砂糖産業が大きく圧迫されていた状況の打破にあると説明していますが、実際には外国産と同様に国内産の砂糖も課税対象であり、国内産砂糖の保護には結びつきませんでした。菓子税則法案の審議を行った元老院でも同様の指摘がされました。元老院は、むしろ砂糖を多量に消費する菓子を一種の「奢侈品」と位置付け、課税の根拠の一つとしたようです。実際、元老院での審議状況をみると、醤油税については元老院議官から導入反対の声が多くあがっていましたが、菓子税については奢侈品とされ、若干トーンダウンしたようです。

このような経緯で導入された菓子税ですが、すぐに、廃止もしくは改正を求める運動が全国で起こりました。運動の過程で、さまざまなパンフレット類が作成・配付されており、その一つが、京都市にあった全国菓子商協議会が発行した『菓子税則廃止懇望意見書』(写真)です。
 この史料は、1租税とは国民の所得額の多寡に応じて賦課するべきであり、多額の所得がある諸商業には課税せずに菓子業に課税するのは不当であること、2菓子商は経営規模が小さい業者が多く高利を得られる業態でもないため、国税を負担させるべきではないこと、3そもそも菓子の定義があいまいであること、4菓子税の税収は当時の内国税全体に占める割合が1%前後と低く、徴収コストと見合っていないこと等の理由をあげ、廃止を求める内容となっています。
 この史料の特徴として、『時事新報』や『東京経済雑誌』など国内の新聞雑誌の掲載記事を引用するだけではなく、アダム・スミスやロッシ、ガルニエなど海外の経済学者の租税論も引き合いに出すなど、さまざまな角度から菓子税廃止論を述べていることです。また、この史料は非売品で、一般に頒布されたものではなく、その内容からもある程度の知識を持った人たちに向けて配ったものではないかと考えられます。

この史料が発行された明治23年(1890)11月は、第1回帝国議会の開会を目前に控えた時期でした。前年に発布された大日本帝国憲法では、租税法律主義が採用され、帝国議会の「協賛」がなければ、税法の改廃や税率の変更はできないとされており、帝国議会が開会されれば、これまでの税制の見直しが行われるだろうという期待感が世間にありました。このような空気の中、菓子税の廃止を客観的、学術的に説明し、世論を廃止に向け醸成したものと考えられます。

なお、この菓子税は、日清戦争後に増大した財政支出を補うため、明治29年に国税として営業税(現在の事業税(地方税)の前身)が創設された際に、重複を避けるため廃止されるに至りました。

(研究調査員 今村 千文)