今回ご紹介する史料は、江戸時代の年貢割付状(納付指令書)です。この年貢割付状は、天和元年(1681)11月に幕府代官の岡上甚右衛門と高室安右衛門から上野国山田郡蕪町村(かぶっちょうむら、現桐生市相生町)に宛てて出されました。もともと蕪町村は幕府領でしたが、徳川綱吉が館林藩主の頃に藩領に編入されたと伝えられています。綱吉が第5代将軍に就任するのが延宝8年(1680)5月であり、翌年11月にこの年貢割付状が蕪町村に発給されていることを踏まえると、綱吉の将軍就任から程無く幕府領に戻ったのでしょう。

続いて年貢割付状の発給者である、幕府代官の岡上(岡登)甚右衛門にも触れておきましょう。岡上氏の祖は、戦国大名の北条氏に仕えたのち、徳川家康に登用されました。以来、一族で代々代官を任され、特に3代目の岡上次郎兵衛景能は新田開発や用水開削に尽力したことで知られる名代官でした。景能が開削した用水は岡登用水として現在も利用され、また群馬県太田市の『太田かるた』では「用水の歴史伝える岡登」と読札が作られる等、その功績は今日も語り継がれています。今回の年貢割付状の甚右衛門が、景能と同一人物なのかはわかりません。2代目の名が甚右衛門であることから、景能の代役を父・甚右衛門が務めたという可能性もあります。いずれにせよ、一族の者である可能性が高いでしょう。

それでは、年貢割付状の内容を見てみましょう。土地の地目を見ると、畑は確認できますが、田が見当たりません。これは年貢米を徴収できるほどの田が無かったためです。また、畑の中でも「砂畑」と表記されている所は、荒砂まじりのため畑の中でも低位な「下々畑」よりもさらに生産性の低い土地であることを示しています。「堀敷」として課税対象から除外されている部分は、蕪町村に取水口があった岡登用水の用水路でしょう。

このような畑作地の村には、どのように年貢が賦課されたのでしょうか。年貢割付状に記されている「永○○文」は銭を指しており、米ではなく銭で年貢を納めるようにという指示です。土地の等級ごとに、1反(約991.7u)につき何文と定められており、そこに面積を掛けて年貢の額が計算されています。

末尾に「絹売上出目」とありますが、これは絹の売却代金への課税です。徳川家康が関東に入国する際、桐生の村々が旗絹を献上したことが始まりと伝えられています。当初は絹の現物納でしたが、次第に金納となりました。家康と桐生織の由緒に関連した課税といえるでしょう。

この蕪町村の生業は、時代を下ってもさほど変わらなかったようです。江戸時代後期の村明細帳(幕府代官の林部善太左衛門に提出した書上の控であることから天保13年〜安政2年(1842〜1855)の作成と考えられます)にも、田は無く、畑で粟・芋・もろこし・大豆・大根等を作っていると記されています。また、それらの農業の合間に、男性は近郷の市で糸絹を売買し、女性は糸取・絹織をしているとも記されています。以上のことから蕪町村では、畑作物や絹を売ることで現金収入を得て、そこから年貢を納めるという方法が江戸時代を通じて行われていたことがわかります。

江戸時代の年貢といえば、米の現物納というイメージを抱かれる方も多いと思います。しかし、実際は江戸時代の始めから、課税する土地やその地域に住む人々の生業に合わせて金納も認めていたことがわかります。

(研究調査員 栗原 祐斗)