今回は、明治37年(1904)に税務署へ提出された所得税の審査請求に関する史料を紹介します。

その前に、明治時代の所得税はどのように課税されていたのか明治32年改正の所得税法により確認しておきましょう。

納税義務者は、所得の申告書を税務署へ提出します。税務署は所得の調査を行い、その調査書を所得調査委員会に送ります。所得調査委員会とは、所得申告書の提出者の中から選挙で選ばれた委員によって構成された委員会です。所得調査委員会は税務署が作成した調査書と納税義務者の申告書を基に意見を述べ、税務署はこの意見を基に所得金額と税額を決定しました。もし決定された所得金額に不服がある場合、20日以内であれば審査を求めることができました。納税義務者からの審査請求については、収税官吏と所得調査委員によって構成される審査委員会が審査しました。

今回の史料(写真1)で所得金額の審査を求めているのは、土田農場の管理者である土田庫吉という人物です。土田農場は、北海道十勝郡生剛村(おべつこうしむら、現浦幌町)にあり、農場主は茨城県筑波郡上郷村(現つくば市)の土田謙吉という人物でした。庫吉は農場の現場管理を任された一族の者であると考えられます。

謙吉は、上郷村で村長や村会議員を務める傍ら、製茶等の殖産興業にも取り組んだ人物で、北海道十勝郡に広がる浦幌原野の開拓にも参入しました。

明治39年(1906)9月10日、謙吉から指示を受けた農場管理者の庫吉は、河西税務署(写真2)(現在の帯広税務署)へ審査請求を行いました。今回の史料は、庫吉が税務署に提出した書類の控えですが、残念ながら審査請求の結果までは分かりません。

しかし、審査請求の際に添えられた理由書には、北海道開拓の様子について以下のような興味深いことが書かれています(写真3)。

「(意訳)土田農場は、明治29年(1896)に開墾地の貸付許可を受け、明治30年(1897)に小作人を募集して開墾に着手しました。小作人の旅費と食費は農場側が貸与することにしており、食費については無利子で2年間貸与の後、3年目から4年払いで返納する取り決めでした。ところが、明治31年(1898)に発生した大洪水が災いし、開墾を予定通り達成できなくなりました。その結果、小作人は食費などの返済が明治37年現在まで滞っていました。開墾できた農地も瘠せており、穀物を植えても1反(約1,200u)当たり僅か1斗2升(約18s)ないし2斗(約30s)の収穫しかなく赤字続きでした。明治37年(1904)からは、多少の小作料収入が見込めるようになりましたが、徴収できる金額はごく僅かです。小作料は1反当たり80銭前後ですが、滞納もあり、実際の収入は1,500円に過ぎません。この収入から事務所費等の経費を差し引いてしまうと残りはごく僅かであり、現在の小作料収入等だけでは農場の維持費にも不足が生じます。所有している牛・馬の収入を計上するにしても少額です。以上の理由から、今回決定された所得金額には納得しかねます。」

冒頭で語られている、明治31年(1898)の大洪水とは十勝川の氾濫を指しています。十勝川は暴れ川とも呼ばれ、流域に度々水害を与えていたようです。『北海道殖民状況報文‐十勝国』(北海道殖民部、明治34年)によれば、農場周辺には湿地も存在しており、農耕を営むには治水・排水が課題だったようです。

理由書の内容が事実だとすれば、入植開始から7年程経過しても安定的に農場経営できる状態には至っておらず、小作人に旅費や食費を貸与していた謙吉にとって赤字続きの事業であったことになります。謙吉は食費等の貸与以外にも、農場の直轄工事として排水路を開削する等、周辺の環境整備も行っており、入植開始以来同様の出費がかさんでいたことが考えられます。

原生林や湿地が広がる北海道の開拓は、大変な難事業でした。その背景には、道具等の技術的な問題もあったと思われますが、経営者には上記のような金銭的な苦労もあったわけです。今回取り上げた史料は、所得税関係の租税史料ですが、北海道開拓史の一端を我々に教えてくれています。

(研究調査員 栗原祐斗)