この史料は、酒類の政府指定販売業者の店頭表示用看板(写真1)です。

政府は昭和24年の酒類配給公団廃止にともない、信用状態が良好な一部の販売業者を指定販売業者に指定し、自由販売酒加算税の納税義務者としました。

加算税というと、現在では申告が誤っていた場合などに、本来の税額以外に納める必要がある税ですが、この自由販売酒加算税というのは意味合いが違います。

当時、酒税は基本税と加算税のいわゆる2階建てで成り立っていました。

加算税がどのような税であったのかや一部の販売業者を納税義務者(指定販売業者)として政府が指定した経緯などは後ほど詳しく書きます。

史料の合名会社國分商店とは、食品と酒類の総合問屋として知られる国分株式会社のことです。昭和24年(1949)7月1日付で、他の30の業者とともに、指定販売業者に指定されました。合名会社國分商店には日本橋の本社以外に、18か所の荷捌所(出張所)がありました。この看板は、國分商店八王子荷捌所が指定販売業者であることを証明するために店頭に掲げられたものです。

この看板の作成については、他に経緯が判明する史料が残されています。それにより、昭和24年(1949)9月、東京酒類卸懇談会からの申し出を東京国税局が承認したものであったことが分かります。この時、卸売業者の携行証票と店頭表示用看板の作成が許可されました。携行証票は縦6p×横8pの税務署長名の証明書です。店頭表示用看板は木製で、縦1尺(約30.3p)×横7寸(約20.6p)に統一されています。指定販売業者は業態の欄に「指定卸売」、指定販売業者以外は業態の欄に単に「卸売」とのみ記載することとされました。東京都内の指定販売業者は、すべてこれと同じ看板を掲げたのですが、都外の業者については便宜の方法によるとされていました(写真2)。

では、なぜ、一部の販売業者を指定販売業者として指定し、自由販売酒加算税の納税義務者として政府が指定したのでしょうか。

自由販売酒加算税が導入されるまで特別価格酒加算税という制度がありました。

酒税は原則として製造業者が納税義務者であり、加算税も製造業者が納めることとなっていましたが、指定販売業者に販売した場合は、指定販売業者が加算税を納めることとされていました。

特別価格酒加算税が導入された昭和22年(1947)当時、酒は配給制であり、販売業者は配給切符を持ってきた人にしか販売ができませんでしたが、指定販売業者は誰にでも販売することが出来ました。

制度の導入当初は、各地の酒類配給会社等が指定販売業者に指定されていましたが、昭和24年当時、指定販売業者は酒類配給公団のみであり、製造業者は基本税を納め、特別価格酒加算税は公団が納めるという形でした。

その公団もGHQの意向により昭和24年(1949)6月30日をもって廃止されました。

公団の廃止に先立ち、昭和24年(1949)5月6日に、政府は特別価格酒加算税を廃止し、税収確保のために自由販売酒加算税を導入しました。

自由販売酒加算税は、製造業者が、(指定販売業者か非指定の販売業者かにかかわらず)販売業者へ販売した段階で課税されました。しかしながら、指定販売業者へ販売した場合は、その指定販売業者が加算税を納め、非指定の販売業者へ販売した場合は製造業者が納めたという違いがあります。

昭和28年の「酒税法精解」で、塩崎潤(大蔵省主税局税制第二課長(当時))は「(公団廃止後)直ちに、酒類製造業者に対して酒税の納付義務の全てを負荷させることは、当時の酒税の負担が相当重く、酒類の仕入代金は多額に上るにもかかわらず、金融は極めて窮屈であったこと等から、酒税の保全及び酒類の円滑な供給が不可能となる虞が多分にあったので、特に信用状態の良好な販売業者を選んで指定販売業者とすることとされた。」と述べています。

公団が廃止された頃、酒税が税収全体に占める割合は、約16%(現在は約3%)と現在より大きなものでした。

政府は公団廃止による混乱を避けるため、特に信用状態の良好な販売業者を指定販売業者に指定し、酒税の確保と酒類の円滑な供給を図ることにしたのです。

昭和28年(1953)の酒税法の全文改正で、指定販売業者制度は廃止されることになりましたが、混乱を避けるための経過措置として昭和30年(1955)2月まで存続されました。

(研究調査員 牛米 努)