昭和11(1936)年11月15日から21日にかけて、大阪税務監督局(現在の大阪国税局)と大阪府及び大阪府下の市町村が、内務省及び大蔵省の後援の下、「納税奉公週間」を開催しました。明治22(1889)年から昭和22(1947)年まで、市町村は一部の国税(地租、所得税、営業税など) の徴収を国から委託されていたので納税奉公週間が共同で開催されたのです。
 『財政』(大蔵財務協会発行の機関誌)によると、この納税奉公週間は「納税思想の普及涵養(かんよう(ゆっくり養い育てること))を図り奉公の精神を振興する」ことを目的に開催されており、期間中には、大阪市内の中学生に対して税に関する講話が行われたり、大阪税務監督局長の講演がラジオで流されたりしました。
 更に、「納税奉公週間文芸作品懸賞募集」と題して、納税をテーマに、1.納税奉公歌、2.標語、3.納税奉公歌謡曲、4.ラジオドラマ脚本、5.童話劇脚本の5項目で懸賞付きの公募が行われました。そのうち、納税奉公歌は「国民歌トシテ唱スルニ適当ナルモノ」として公募されました。
 当時は、国民歌として様々なテーマで歌詞などが公募されており、例えば、「愛国行進曲」(歌詞、曲ともに公募)もその一つです。
 作品は全国から集まり、納税奉公歌には830件、標語に2万4千件、納税奉公歌謡曲に420件、ラジオドラマ脚本には220件、童話脚本には90件の応募がありました。
 納税奉公歌は関西を中心に活躍していた詩人の富田砕花が、納税奉公歌謡曲は「青い山脈」や「王将」などを作詞した西條八十が選者となっていました。
 標語は大阪府、大阪市及び大阪税務監督局と大阪商工会議所が選者となりましたが、1等がなく大阪市役所の職員が作った「納税奉公 輝く日本」という作品が2等に選ばれました。
 ラジオドラマ脚本と童話脚本についての詳細は不明です。
 選考を経た結果は、翌年の昭和12(1937)年2月15日に大阪朝日新聞と大阪毎日新聞で発表され、このうち納税奉公歌と納税奉公歌謡曲で1等に選ばれたものがレコード化されました。(写真1)
 この納税奉公歌等はみんなに歌ってもらうことで、納税の大切さを広く訴えようとしたのでしょう。歌詞を見ると、納税奉公歌は、七五調の厳かな感じで(写真2)、納税奉公歌謡曲はヤッコラセやセッセセッセなどの合いの手が入った民謡調(写真3)となっています。
 昭和初期頃から、納税思想の涵養や未納整理などを行う「納税デー」や「納税週間」、それに類似するイベントが、他の市町村や府県、税務監督局でも開催されました。
 昭和11(1936)年11月16日から21日にかけ、東京税務監督局管内で「税金完納週間」が開催され、翌年の昭和12(1937)年11月23日から27日には名古屋税務監督局内で「納税週間」が開催されました。地域により違いますが、納税を推奨するビラを飛行機から散布したり、ポスター、立て看板、横断幕などが設置されたり、納税に関する芝居なども催されました。また、標語を印刷したマッチも配布されました。
 では、なぜ、納税週間や納税デーなどのイベントが催されたのでしょうか。
 昭和初期になると、世界恐慌やそれに伴う昭和恐慌などで税の滞納が深刻な事態となってきました(グラフ参照)。昭和7年にはピークを迎え、督促状発送件数で100万件超、財産差押件数で10万件超という事態になりました。そこで、滞納している税を納めてもらうだけでなく、納税思想を向上させることなども目的とした大規模なイベントが全国で行われたのです。
  なお、この納税奉公歌や納税奉公歌謡曲は租税史料室で聞くことができます。

(研究調査員 今村千文)